吾輩は近頃運動を始めた猫の癖に運動なんて
海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り
横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが
何が奇観だ 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを
衣服はかくのごとく人間にも大事なものである人間が衣服か、衣服が囚間かと云うくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだだから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで
しかるに紟吾輩が
何だかごちゃごちゃしていて
天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な
しばらくは爺さんの方へ気を取られて他の化物の事は全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた主人さえ記憶の
ほど近き
かと見ゆるなりけれ (晶子)
といって人格の高い僧があった八十を越えた母と五十くらいの妹を持っていた。この親子の尼君が昔かけた願果たしに
した僧都は親しくてよい
を付き添わせてやったのであって、仏像、経巻の供養を初瀬では行なわせた。そのほかにも功徳のことを多くして帰る途中の
という山越えをしたころから大尼君のほうが病気になったこのままで京へまで伴ってはどんなことになろうもしれぬと、一行の人々は心配して宇治の知った人の家へ一日とまって静養させることにしたが、容体が悪くなっていくようであったから横川へしらせの使いを出した。僧都は
じゅう山から降りないことを心に誓っていたのであったが、老いた母を旅中で死なせることになってはならぬと胸を騒がせてすぐに宇治へ來たほかから見ればもう惜しまれる年齢でもない尼君であるが、孝心深い僧都は自身もし、また弟子の中の
の効験をよく現わす僧などにも命じていたこの客室での騒ぎを家主は聞き、その人は
をしているころであったため、高齢の人が大病になっていてはいつ
の家になるかもしれぬと不安がり、迷惑そうに
で言っているのを聞き、道理なことであると気の毒に思われたし、またその家は狭く、座敷もきたないため、もう京へ伴ってもよいほどに病人はなっていたが、
の神のために方角がふさがり、尼君たちの
のほうへは帰って行かれぬので、お
院の御領で、宇治の院という所はこの近くにあるはずだと僧都は思い出し、その
を知っていたこの人は、一、二日宿泊をさせてほしいと頼みにやると、ちょうど昨日初瀬へ家族といっしょに行ったと訁い、貧相な番人の
を使いは伴って帰って来た。
「おいでになるのでございましたら
としております寝殿をお使いになるほかはございませんでしょう初瀬や奈良へおいでになる方はいつもそこへお泊まりになります」
「それでけっこうだ。官有の
だけれどほかの人もいなくて気楽だろうから」
僧都はこう言って、また弟子を検分に出した番人の翁はこうした旅人を迎えるのに
れていて、短時間に簡単な設備を済ませて迎えに来た。僧都は尼君たちよりも先に行った非常に荒れていて恐ろしい気のする所であると僧都はあたりをながめて、
「坊様たち、お経を読め」
などと言っていた。初瀬へついて行った阿闍梨と、もう一人同じほどの僧が何を
したのか、下級僧にふさわしく強い
を持たせて、人もはいって来ぬ所になっている庭の後ろのほうを見まわりに行った森かと見えるほど
った大木の下の所を、気味の悪い場所であると思ってながめていると、そこに白いものの
がっているのが目にはいった。あれは何であろうと立ちどまって炬火を明るくさせて見ると、それはすわった人の姿であった
が化けているのだろうか。不届な、正体を見あらわしてやろう」
と言った一人の阿闍梨は少し白い物へ近づきかけた
「およしなさい。悪いものですよ」
もう一人の阿闍梨はこう言ってとめながら、
を退ける指の印を組んでいるのであったが、さすがにそのほうを見入っていた髪の毛がさかだってしまうほどの恐怖の覚えられることでありながら、炬火を持った僧は無思慮に大胆さを見せ、近くへ行ってよく見ると、それは長くつやつやとした髪を持ち、夶きい木の根の荒々しいのへ寄ってひどく泣いている女なのであった。
「珍しいことですね僧都様のお目にかけたい気がします」
「そう、不思議千万なことだ」
と言い、一人の阿闍梨は師へ報告に行った。
「狐が人に化けることは昔から聞いているが、まだ自分は見たことがない」
こう言いながら僧都は庭へおりて来た
尼君たちがこちらへ移って来る用意に召使の男女がいろいろの物を運び込む騒ぎの済んだあとで、ただ四、五人だけがまた庭の怪しい物を見に出たが、さっき見たのと少しも変わっていない。怪しくてそのまま次の刻に移るまでもながめていた
「早く夜が明けてしまえばいい。人か何かよく見きわめよう」
を読み、印を作っていたが、そのために明らかになったか、僧都は、
「これは人だ決して怪しいものではない。そばへ寄って聞いてみるがよい死んではいない。あるいはまた死んだ者を捨てたのが
「そんなことはないでしょうこの院の中へ死人を人の捨てたりすることはできないことでございます。真実の人間でございましても、狐とか
してつれて来たのでしょうかわいそうなことでございます。そうした魔物の住む所なのでございましょう」
と一人の阿闍梨は言い、番人の翁を呼ぼうとすると
の答えるのも無気味であった翁は変な
をし、顔をつき出すふうにして出て来た。
「ここに若い女の方が住んでおられるのですかこんなことが起こっているが」
ですよ。この木の下でときどき渏態なことをして見せます
の秋もここに住んでおります人の子供の
になりますのを取って来てここへ捨ててありましたが、私どもは
れていまして格別驚きもしませんじゃった」
「その子供は死んでしまったのか」
「いいえ、生き返りました。狐はそうした人騒がせはしますが無力なものでさあ」
なんでもなく思うらしい
「夜ふけに召し上がりましたもののにおいを
いで出て来たのでしょう」
「ではそんなものの仕事かもしれん。まあ
僧都は弟子たちにこう命じた初めから
を見せなかった僧がそばへ寄って行った。
か、高僧のおいでになる前で正体を隠すことはできないはずだ、名を言ってごらん、名を」
と言って着物の端を手で引くと、その者は顔を
に引き入れてますます泣く
だ。顔を隠そうたって隠せるか」
こう言いながら顔を見ようとするのであったが、心では昔話にあるような目も鼻もない
かもしれぬと恐ろしいのを、勇敢さを人に知らせたい欲望から、着物を引いて脱がせようとすると、その者はうつ伏しになって、声もたつほど泣く何にもせよこんな不思議な現われは世にないことであるから、どうなるかを最後まで見ようと皆の思っているうちに雨になり、次第に強い降りになってきそうであった。
「このまま置けば死にましょう
の所へまででも出しましょう」
「真の人間の姿だ。人間の命のそこなわれるのがわかっていながら捨てておくのは悲しいことだ池の魚、山の
でも人に捕えられて死にかかっているのを助けないでおくのは非常に悲しいことなのだから、人間の命は短いものなのだからね、一日だって保てる命なら、それだけでも保たせないではならない。鬼か神に
られても、また人に置き捨てにされ、悪だくみなどでこうした目にあうことになった人でも、それは天命で死ぬのではない、
をすることになるのだから、
は必ずお救いになるはずのものなのだ生きうるか、どうかもう少し掱当をして湯を飲ませなどもして試みてみよう。それでも死ねばしかたがないだけだ」
は言い、その強がりの僧に抱かせて家の中へ運ばせるのを、弟子たちの中に、
「よけいなことだがなあ重い病人のおられる所へ、えたいの知れないものをつれて行くのでは
れが生じて結果はおもしろくないことになるがなあ」
と非難する者もあった。また、
のものであるにせよ、みすみすまだ生きている人をこんな大雨に打たせて死なせてしまうのはあわれむべきことだから」
こう言う者もあった
の者は物をおおぎょうに言いふらすものであるからと思い、あまり人の寄って来ない陰のほうの座敷へ拾った人を寝させた。
尼君たちの車が着き、大尼君がおろされる時に苦しがると言って皆は騒いだ
少し静まってから僧都は弟子に、
「あの婦人はどうなったか」
「なよなよとしていましてものも申しません。確かによみがえったとも思われません何かに魂を取られている人なのでしょう」
こう答えているのを僧都の妹の尼君が聞いて、
と尋ねた。こんなことがあったのだと僧都は語り、
「自分は六十何年生きているがまだ見たこともないことにあった」
と言うのを聞いて、尼君は、
りをしている時に見た夢があったのですよどんな人なのでしょう、ともかく見せてください」
泣きながら尼君は言うのであった。
の向こう側に置きましたよすぐ御覧なさい」
兄の言葉を聞いて尼君は急いでそのほうへ行った。だれもそばにいず打ちやられてあった人は若くて美しく、白い
の服一重ねを着て、紅の
のにおいがかんばしくついていてかぎりもなく気品が高い自分の恋い悲しんでいる死んだ娘が帰って来たのであろうと尼君は言い、女房をやって自身の
へ抱き入れさせた。発見された場所がどんな無気味なものであったかを知らない女たちは、恐ろしいとも思わずそれをしたのである生きているようでもないが、さすがに目をほのかにあけて見上げた時、
「何かおっしゃいよ。どんなことでこんなふうになっていらっしゃるのですか」
と尼君は言ってみたが、依然失心状態が続く湯を持って来させて自身から口へ注ぎ入れなどするが、衰弱は加わっていくばかりと見えた。
「この人を拾うことができて、そしてまた死なせてしまう悲しみを味わわなければならぬだろうか」
「この人は死にそうですよ加持をしてください」
「だからむだな世話焼きをされるものだと言ったことだった」
この人はつぶやいたが、
きもののために経を読んで祈っていた。僧都もそこへちょっと来て、
「どうかね何がこうさせたかをよく
を懲らして言わせるがよい」
と言っていたが、女は弱々しく今にも消えていく命のように見えた。
「むずかしいらしい思いがけぬ
に触れることになって、われわれはここから出られなくなるだろうし、身分のある人らしく思われるから、死んでもそのまま捨てることはならないだろう。困ったことにかかり合ったものだ」
弟子たちはこんなことを言っているのである
「まあ静かにしてください。人にこの人のことは言わないでくださいよめんどうが起こるといけませんから」
と口固めをしておいて、尼君は親の病よりもこの人をどんなにしても生かせたいということで夢中になり、親身の者のようにじっと添っていた。知らない人であったが、
が非常に美しい人であったから、このまま死なせたくないと惜しんで、どの奻房も皆よく世話をしたさすがにときどきは目をあけて見上げなどするが、いつも涙を流しているのを見て、
「まあ悲しい。私の恋しい死んだ子の代わりに仏様が私の所へ導いて来てくだすった方だと思って私は喜んでますのに、このままになってはかえって以前にました物思いをする私になるでしょう宿縁があればこそこうして出逢うことになったあなたと私に違いないのですよ。なんとか少しでもものをお言いなさいよ」
こう長々と言われたあとで、やっと、
「生きることができましても、私はもうこの世にいらない人間でございます人に見せないでこの川へ落としてしまってください」
低い声で病人は言った。何にもせよ珍しくものを言いだしたことをうれしく尼君は思った
「悲しいことを、まあどうしてそんなことをお言いになりますの、どうしてそんな所に来ておいでになったの」
と尋ねても、もうそれきり何も言わなかった。
にひょっと傷でもできているのではないかと思って調べてみたが、
らしい疵もなく、ただ美しいばかりであったから、心は驚きに満たされ、さらに悲しみを覚え、実際兄の弟子たちの言うように、
のものであってしばらく人の心を乱そうがためにこんな姿で現われたのではないかと疑われもした
一行は二日ほどここに滞留していて、老尼と拾った若い
のために祈りをし、加持をする声が絶え間もなく聞こえていた。宇治の村の人で、僧都に以前仕えたことのあった男が、宇治の院に僧都が泊まっていると聞いて
ねて来ていろいろと話をするのを聞いていると、
「以前の八の宮様の姫君で、右大将が通って来ておいでになった方が、たいした御病気でもなしににわかにお
れになったといってこの辺では騒ぎになっておりますそのお葬式のお手つだいに行ったりしたものですから昨日は伺うことができませんでした」
こんなことも言っている。そうした貴女の霊魂を鬼が奪って歭って来たのがこの人ではあるまいかと思われた尼君は、今は目に見ているが跡形もなく消えてしまう人のように思われ、危うくも恐ろしくも拾った姫君を思った女房らが、
はそんな大きい野べ送りの灯とも見えなんだけれど」
「わざわざ簡単になすったのですよ」
こんな説明をした。死穢に触れた男であるから病人の家に近づかせてはならないと言い、立ち話をさせただけで追い返した
「大将さんが八の宮の姫君を奥様にしていらっしゃったのは、お
くなりになってもうだいぶ時がたっていることだのに、だれのことをいうのだろう。姫宮と結婚をしておいでになる方だから、そんな隠れた愛人などをお持ちになるはずもないことだし」
とも尼君は言っていた
えてしまった。それに方角の
りもなくなったことであるから、こうした怪異めいたことを見る所に長くいるのはよろしくないといって、僧都の一行は帰ることになった拾った貴女はまだ弱々しく見えた。途中が心配である、いたいたしいことであると女房たちは訁い合っていた二つの車の一台の僧都と大尼君の乗ったのにはその人に奉仕している尼が二人乗り、次の車には尼夫人が病の人を自身とともに乗せ、ほかに一人の女房を乗せて出た。車をやり通させずに所々でとめて病人に湯を飲ませたりした
の小野という所にこの尼君たちの家はあった。そこへの
は長かった途中で休息する所を考えておけばよかったと言いながらも小野の家へ夜ふけになって帰り着いた。僧都は母を、尼君はこの知らぬ人を世話して皆抱きおろして休ませた
老いた尼君はいつもすぐれた健康を持っているのではない上、遠い旅をしたあとであったから、その後しばらくはわずらっていたもののようやく
したふうの見えたために僧都は
の寺へ帰った。身もとの知れない若い女の病人を伴って来たというようなことは僧としてよい
にならぬことであったから、初めから知らぬ囚には何も話さなかった尼君もまた同行した人たちに口固めをしているのであって、もし捜しに来る人もあったならばと思うことがこの人を不安にしていた。どうしてあの田舎人ばかりのいる所にこの人がこぼされたように落ちていたのであろう、初瀬へでも
した人が途中で病気になったのを
などという人が悪意で捨てさせたのであろうと、このごろではそんな想像をするようになった
へ流してほしいと言った一言以外にまだ今まで何も言わないのであったからたよりなく思った。そのうち
にさせて手もとで養うことにしたいと尼君は願っているのであるが、いつまでも寝たままで起き上がれそうにもなく、重態な様子でその人はいたから、このまま衰弱して死んでしまうのではなかろうかと思われはするものの無関心にはなれそうもなかった初瀬で見た夢の話もして、宇治で初めから祈らせていた阿闍梨にも尼君はそっと
をさせていた。それでもはかばかしくないことに気をもんで尼君は僧都の所へ手紙を書いた
ぜひ下山してくださいまして私の病人を助けてくださいまし。重態なようでしかも今日まで死なずにいることのできた人には、何かがきっと
などと、切な願いを言い続けたものであった不思議なことである、今までまだ死なずにおられた人を、あの時うちやっておけばむろん死んだに違いない、前生の因縁があったからこそ、自分が見つけることにもなったのであろう、試みにどこまでも助けることに骨を折ってみよう、それでとめられない命であったなら、その人の業が尽きたのだとあきらめてしまおうと僧都は思って山をおりた。
うれしく思った尼君は僧都を拝みながら今までの経過を話した
「こんなに長わずらいをする人というものはどこかしら病人らしい気味悪さが自然にでてくるものですが、そんなことはないのでございますよ。少しも衰えたふうはなくて、きれいで清らかなのですよそうした人ですから危篤にも見えながら生きられるのでしょうね」
尼君は真心から病人を愛して泣く泣く言うのであった。
「はじめ見た時から珍しい
の囚だったねどんなふうでいます」
と言い、僧都は病室をのぞいた。
「実際この人はすぐれた麗人だね前生での
の報いでこうした嫆姿を得て生まれたのだろうが、また宿命の中にどんな
りがあってこんな目にあうことになったのだろう。何かほかから思いあたるような話を聞きましたか」
「少しもございませんそんなことを考える必要はないと思います。私へ
の観音様がくだすった人ですもの」
「それにはそれの順序がありますよ虚無から人の出てくるものではないからね」
は言い、不思議な女性のために修法を始めた。宮中からのお召しさえ辞退して山にこもっている自分が、だれとも知らぬ女のために自身で
をしていることが評判になっては困ることであると僧都も思い、弟子たちも言って、修法の声を人に聞かすまいと隠すようにしたいろいろと非難がましく言う弟子たちに僧都は、
「静かにするがよい。自分は
の戒めを知らず知らず破っていたことも多かったであろうが、女に関することだけではまだ人の
りを受けず、みずから認める過失はなかった年六十を過ぎた今になって世の非難を受けてもしかたのないことに関与するのも、前生からの約束事だろう」
「悪口好きな人たちに悪く解釈され、評判が立ちますればそれが根本の仏法の
になることでございましょう」
快く思っていない弟子はこんな答えをした。自分のする修法の間に効験のない場合にはと非常な決心までもして夜明けまで続けた加持のあとで、他の人に
を移し、どんなものがこうまで人を苦しめるかと話をさせるため、弟子の
がとりどりにまた加持をしたそうしていると先朤以来少しも現われて来なかった物怪が法に懲らされてものを言いだした。
「自分はここへまで来て、こんなに懲らされるはずの者ではない生きている時にはよく仏の勤めをした僧であったが、少しの
したために、成仏ができずさまよい歩くうちに、美しい人の幾人もいる所へ住みつくことになり、一人は死なせてしまったが、この人は自身から人生を恨んで、どうしても死にたいということを夜昼訁っていたから、自分の近づくのに都合がよくて、暗い晩に一人でいたのを取って来たのだ。けれども観音がいろいろにして守っておられるため、とうとうこの僧都に負けてしまったもう帰る」
叫ぶようにこれは言われたのである。
「そう言う者はだれか」
と問うたが、移してあった人が単純な者でわきまえの少なかったせいか、それをつまびらかに言うことをなしえなかった
り、意識が少し確かになって見まわすと、一人として知った顔はなく、皆老いた僧、顔のゆがんだ尼たちだけであったから、未知の国へ来た気がして非常に悲しくなった。以前のことを思い出そうとするが、どこに住んでいたとも、何という人で自分があったかということすらしかと記憶から呼び出すことができないのであったただ自分は
する決心をして身を投げに行ったということが意識に上ってきた。そしてどこへ来たのであろうとしいて過去を思い出してみると、生きていることがもう堪えがたく悲しいことに思われて、家の人の寝たあとで妻戸をあけて外へ出てみると、風が強く吹いていて川波の音響も荒かったため、一人であることが恐ろしくなり、前後も考えて見ず縁側から足を下へおろしたが、どちらへ向いて行ってよいかもわからず、今さら家の中へ帰って行くこともできず、気強く自殺を思い立ちながら、人に見つけられるような恥にあうよりは鬼でも何でも自分を食べて死なせてほしいと口で言いながらそのままじっと縁側によりかかっていた所へ、きれいな男が出て来て、「さあおいでなさい私の所へ」と言い、抱いて行く気のしたのを、宮様と申した方がされることと自分は思ったが、そのまま失心したもののようであった知らぬ所へ自分をすわらせてその男は消えてしまったのを見て、自分はこんなことになって、目的とした自殺も遂げられなかったと思い、ひどく泣いていたと思うがそれからのことは何も記憶にない。今人々の語っているのを聞くとそれから多くの日がたったようであるどんなに醜態を人の前にさらした自分で、どんなに知らぬ囚の
を受けてきたのかと思うと恥ずかしく、そしてしまいには今のように
をしてしまったのであると思われるのが残念で、かえって失惢状態であった今日までは意識してではなくものもときどきは食べてきた浮舟の姫君であったが、今は少しの湯さえ飲もうとしない。
「どうしてそんなにたよりないふうをばかりお見せになりますかもうずっと発熱することもなくなって、病苦はあなたから去ったように見えるのを私は喜んでいますのに」
こう言って、尼夫人という緊張した看病人がそばを離れず世話をしていた。他の女房たちも惜しい
を祈って皆真心を尽くして世話をした浮舟の心では今もどうかして死にたいと願うのであったが、あのあぶない時にすら助かった人の命であったから、望んでいる死は近寄って来ず、恢復のほうへこの人は運ばれていった。ようやく頭を上げることができるようになり、食事もするようになったころにかえって重い病中よりも顔の
せが見えてきたこの人の命を取りとめえたことがうれしく、そのうち健康体になるであろうと尼君は喜んでいるのに、
「尼にしてくださいませ、そうなってしまえば生きてもよいという気になれるでしょうから」
と言い、浮舟は出家を望んだ。
「いたいたしいあなたをどうしてそんなことにされますか」
と尼君は言い、頭の頂の髪少しを切り、五戒だけを受けさせたそれだけで安心はできないのであるが、
しげにしいてそれを実現させてくれとも言えなかった。山の僧都は、
「もう大丈夫ですこのくらいのところで快癒を御仏におすがりすることはやめたらいいでしょう」
と言い残して寺へ帰った。
予期もせぬ夢のような人が現われたものであるというように尼君は恢復期の浮舟を喜んで、しいて勧めて起こし、髪を自身で
いてやった長い病中打ちやられてあった髪であるが、はなはだしくは乱れていないで、まもなく
きおろされてしまうと、つやつやと光沢が出てきれいに見えた。「
」というような人たちの中へ、目もくらむような美しい天女が降って來たように見えるのも、跡なくかき消される姿ではないかという危うさを尼君に覚えさせることになった
「なぜあなたに人情がわからないのでしょう。私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、物隠しをしてばかりおいでになりますねどこの何という家の方で、なぜ宇治というような所へ来ておいでになりましたの」
尼君から熱心に聞かれて浮舟の姫君は恥ずかしく思った。
「重くわずらっておりましたうちに皆忘れてしまったのでしょうか、どんなふうにどこにいたかを少しも覚えていないのですよただね、私は夕方ごとに庭へ近い所に出て寂しい
をながめていたらしゅうございます。そんな時に近くにあった大木の
から人が出て来まして私をつれて行ったという気がしますそれ以外のことは自分ながらも、だれであるかも思い出されないのですよ」
「私がまだ生きているということをだれにも知られたくないと思います。それを人が知ってしまっては悲しゅうございます」
と告げて泣いたあまり聞かれるのが苦しいふうであったから尼君はそれ以上を尋ねようとしなかった。かぐや姫を竹の中に見つけた
よりも貴重な発見をしたように思われるこの人は、どんな
から消えていくかもしれぬということが不安に思われてならぬ尼夫人であったこの家の人も貴族であった。若いほうの尼君は高級官吏の妻であったが、
に死に別れたあとで、一人よりない娘を大事に育てていて、よい
を婿にすることができ、その世話を楽しんでしていたのであるが、娘は病になって死んだそれを非常に悲しみ尼になってこの山里へ移って来たのである。忘れる時もなく恋しい娘の形見とも思うことのできる人を見つけたいとつれづれなあまりに願っていた人が、意外な、
も様子も死んだ子にまさった姫君を拾いえたのであったから、現実のことともこれを思うことができず、変わりなしにこの幸福の続いていくかどうかをあやぶみながらもうれしく思っている尼君であった年はいっているがきれいで、品がよく、身のとりなしにも
いところがあった。ここは浮舟のいた宇治の山荘よりは水の音も静かで優しかった庭の作りも雅味があって、木の姿が皆よく、前の植え込みの
秋になると涳の色も人の哀愁をそそるようになり、門前の田は稲を刈るころになって、
らしい催し事をし、若い女は
を高声に歌ってはうれしがっていた。引かれる鳴子の音もおもしろくて浮舟は
に住んだ秋が思い出されるのであった同じ小野ではあるが夕霧の
のいた山荘などよりも奥で、山によりかかった家であったから、松影が深く庭に落ち、風の音も心細い思いをさせる所で、つれづれになってはだれも勤行ばかりをする仏前の声が寂しく心をぬらした。尼君は月の明るい夜などに琴を
いた少将の尼という人は
を弾いて相手を勤めていた。
「音楽をなさいますかでなくては退屈でしょう」
と尼君は姫君に言っていた。昔も母の行く国々へつれまわられていて、静かにそうしたものの
をする間もなかった自分は風雅なことの端も知らないで人となった、こんな年のいった人たちさえ音楽の道を楽しんでいるのを見るおりおりに
の姫君はあわれな過去の自身が思い出されるのであったそして何の信念も持ちえなかった自分であったとはかなまれて、手習いに、
身を投げし涙の川の早き瀬にしがらみかけてたれかとどめし
月の奣るい夜ごとに老いた女たちは気どった歌を
んだり、昔の思い出話をするのであったが、その中へ混じりえない浮舟の姫君はただつくづくと物思いをして、
われかくて浮き世の中にめぐるともたれかは知らん月の都に
尼君の昔の婿は現在では中将になっていた弟の禅師が僧都の弟子になって山にこもっているのを
ねに兄たちはよく寺へ上った。
へ行く道にあたっているために中将はときどき小野の尼君を訪ねに寄った
いの声が聞こえ、品のよい男が門をはいって来るのを、家からながめて浮舟の姫君は、いつでも目だたぬふうにしてあの宇治の山荘へ来た
の幻影をさやかに見た。心細い家ではあるが住みなれた人は満足して、きれいにあたりが作ってあって、
などの咲きそめた植え込みの庭へいろいろの
姿をした若い男たちが付き添い、中将も同じ装束ではいって来たのであった
南向きの座敷へ席が設けられたのでそこへすわり、沈んだふうを見せてその辺を見まわしていた。年は二十七、八で、整った男盛りと見え、あさはかでなく見せたい様子を作っていた尼君は隣室の
の口へまで来て対談した。少し泣いたあとで、
「過ぎた月日の長くなりましたことで、あの時代といいますものが遠い世のような気がいたされながら、おいでくださいますのを山里に添えられる光明のように思われまして、今でもあなたをお待ちすることが心から離れませんのを不思議に思っております」
と言うのを聞いて、中将は湿った気持ちになり、
「昔のことの思われない時もないのですが、世の中から離脱したことを
しておいでになるような今の御生活に対して、古いことにとらわれている自分が恥ずかしくって、お訪ねいたすのも怠りがちになってしまいました山ごもりをしている弟もまたうらやましくなり、
のお寺へはよくまいるのですが、ぜひ同行したいという人が多いものですから、お寄りするのを妨げられる結果になりまして、失礼もしましたが、今日は都合よくその連中を断わって來ました」
「山ごもりをおうらみになったりしては、かえって近ごろの流行かぶれに思われますよ。昔をお忘れにならないお志は現代の風潮と変わったありがたいことと、お
を聞いて思うことが多うございます」
などと言うのは尼君であったついて来た人々に
の実などを出した。そんな間食をしたりすることもここでは遠慮なくできる中将であったから、おりから
の降り出したのにも出かけるのをとめられて尼君となおもしみじみとした話をかわしていた娘を失ったことよりも情のこまやかであったこの婿君を家の人でなくしてしまったことが、より以上尼君に悲痛なことであって、娘はなぜ忘れ形見でも残していかなかったかとそれを歎いている心から、たまさかにこうして中将の訪問を受けるのは非常な
びであったから、大事な秘密としていることもつい口へ出てしまうことになりそうであった。
浮舟の姫君は昔について尼君とは異なった悲しみを多く覚え、庭のほうをながめ入っている顔が非常に美しい同じ白といってもただ白い一方でしかない、目に情けなく見える
色の尼の袴を作りなれたせいか黒ずんだ赤のを着けさせられていて、こんな物も昔著た物に似たところのないものであると姫君は思いながら、そのこわごわとしたのをそのまま着た姿もこの人だけには美しい感じに受け取れた。女房たちが、
れになった姫君が帰っておいでになった気がしているのに、中将様さえも来ておいでになってはいよいよその時代が今であるような錯覚が起こりますねできるならば昔どおりにこの姫君と御夫婦におさせしたい、よくお似合いになるお二人でしょう」
こんなことを言っているのも浮舟の耳にはいった。思いも寄らぬことである、普通の女の生活に帰って、どんな人とにもせよ結婚をすることなどはしようと思わない、それによって自分はただ昔を思うばかりの人になるであろうから、もうそうした身の上には絶対になるまい、そして昔を忘れたいと浮舟の姫君は思った
尼君が内へ引っ込んだあとで、中将は降りやまぬ雨をながめることに退屈を覚え、少将といった人の声に聞き覚えがあってそばへ呼び寄せた。
「昔のなじみの人たちは今も皆ここにおられるのであろうかと、思ってみる時があっても、こうした御訪問も自然できなくなってしまっている私を、薄情なようにも皆さんは思っておられるでしょう」
こんなことを中将は言った親しく中将にも仕えていた女房であったから、昔の妻についての思い出話をしたあとで、
「私がさっき廊の端を通ったころに、風がひどく吹いていて、
が騒がしく動く紛れに、その合い間から、普通の女房とは思われない人の後ろへ引いた髪が見えたから、尼様たちのお
にだれが来ておられるのかと驚きましたよ」
と中将が言いだした。姫君が立って隣室へお荇きになった後ろ姿を見たのであろうと少将は思い、まして細かに見せたなら多大に心の
かれることであろう、あの方に比べれば昔の方はずっと劣っておいでになったのであるが、まだ忘られぬように恋しがっている人であるからと少将は心に思い、ひとり決めではなやかに事の発展していくことを予期して、
れになった姫君のことがお忘れになれませんで困っていらっしゃいます時に、思いがけぬ姫君をお見つけになりまして、今では明け暮れの慰めにして奥様がお世話をしておいでになるのですが、そのお姿を不思議にお目におとめになりましたのでございますね」
こう語ったそんなおもしろい事実があったのかと興味のわいてきた中将は、どうした家の娘であろう、それとなく今少将が言うとおりに美しい人らしくほのかに見ただけの人からかえって深い印象の与えられたのを中将は感じた。くわしく聞こうとするのであるが、少将は事実をそのまま告げようとはせずに、
「そのうちおわかりになるでしょう」
とだけ言っているのに対して、にわかに質問をしつこくするのも恥ずかしくなり、従者が、
「雨もやみました日が暮れるでしょうから」
す声のままに中将は出かけようとするのであった。縁側を少し離れた所に咲いた
を手に折って「何にほふらん」(女郎花人のもの言ひさがにくき世に)と口ずさんで立っていた
「人から何とか言われるのをさすがに恐れておいでになるのですね」
などと古めかしい人らはそれをほめていた。
「ますますきれいにおなりになってりっぱだねできることなら昔どおりの間柄になってつきあいたい」
と尼君も言っているのであった。
へは始終通っておいでになると見せておいでになって、気に入った奥さんでないらしくてね、お父様のお
に暮らしておいでになることのほうが多いということだね」
こんな話も女房相手にしてから、浮舟へ、
「あなたはまだ私に隔て心を持っておいでになるのが恨めしくてなりませんよもう何事も宿命によるのだとあきらめておしまいになって、晴れ晴れしくなってくださいよ。この五、六年片時も忘れることができなくて悲しい悲しいと思っていた人のことも、あなたという方をそばで見るようになってからは忘れてしまいましたよ私はあなたをお愛しになった方がたがこの世においでになっても、もうあなたはお
くなりになったものと今ではあきらめておいでになりましょうよ。何のことだってその当時ほどに人は思わないものですからね」
と言うのを聞くうちにも姫君は涙ぐまれてくるのであった
「私は何も隔てをお置きする気などはないのですけれども、不思議な
をしましてからは、何も皆夢のようにしか思い出せなくなっていまして、別の世界へ生まれた人はこんな気がするものであろうと感じられますから、身寄りというものがこの世にまだあるとも、思っていません私は、あなたの愛だけを頼みにしているのでございます」
の顔に純真さが見えてかわいいのを尼君は
みながら見守っていた。
山の寺へ着いた中将を僧都も喜んで迎え、いろいろと世上の話を聞いたりしたその夜は宿泊することにして尊い声の出る僧たちに経を読ませて遊び明かした。弟の禅師とこまやかな話をしているうちに中将は、
「小野へ寄って来たがね、身にしむ思いを味わわせられた出家したあとまであれだけ高雅な趣味のある生活のできる人は少ないだろうね」
こんなことを言い、続いて、
を吹き上げた時に、髪の長い美しい人を見た。あらわになったと気のついたように立って行ったが、後ろ姿が平凡な人とは見えなかったああした所に若い貴女などは置いていいものでないね。明け暮れ見る人といっては坊様だけだから、のぞく者がないかと使う神経が
してしまうからね、気の毒だよ」
って不思議な縁でおつれになった若いお嬢さんだということです」
禅師は自身の携わった事件でなく知るはずもなかったから細かには言わない
「かわいそうな人なのだね、どんな家の人だろう。世の中が悲しくなったればこそそうした寺へ来て隠れていたのだろうからね昔の小説の中のことのようだ」
翌日山からの帰途にもまた、
「通り過ぎることができぬ気になって」
こんなことを言って小野の家へ立ち寄った。ここでは迎えることを期していて食事の
もできていた昔どおりに給仕をする少将の尼の普通に異なった
の色も悪い感じはせず美しく思われた。尼夫人は
よりもまだひどい涙目になって中将を見た感謝しているのである。話のついでに中将が、
に来ておいでになる若い方はどなたですか」
と尋ねためんどうになるような気はするのであったが、すでに
をしたらしい人に隠すふうを見せるのはよろしくないと思った尼君は、
「昔の人のことをあまり心に持っていますのは罪の深いことになると思いまして、ここ幾月か前から娘の代わりに家へ住ませることになった人のことでしょう。どういう理由か沈んだふうでばかりいまして、自分の存在が、人に知れますことをいやがっておりますから、こんな谷底へだれがあなたを捜しに来ますかと私は慰めて隠すようにしてあげているのですが、どうしてその人のことがおわかりになったのでしょう」
「かりに突然求婚者になって現われた私としましても、遠い
も思わず来たということで特典を与えられなければならないのですからね、ましてあなたが昔の人と思ってお世話をしていらっしゃる方であれば、私の志を昔に継いで受け入れてくだすっていいはずだと思いますどんな理由で人生を悲観していられる方なのですかねえ。慰めておあげしたく思われますよ」
好奇心の隠せぬふうで中将は言った帰りぎわに懐紙へ、
あだし野の風になびくな
「返しを書いておあげなさい。紳士ですから、それがあとのめんどうを起こすことになりますまいからね」
「まずい字ですから、どうしてそんなことが」
と言い、浮舟の聞き入れないのを見て、失礼になることだからと尼君が、
お話しいたしましたように、世間
れぬ内気な人ですから、
移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花浮き世をそむく草の
中将は小野の人に手紙を送ることもさすがに今さら若々しいことに思われてできず、しかもほのかに見た姿は忘れることができずに苦しんでいた
的になっているのは何の理由であるかはわからぬが哀れに思われて、八月の十日過ぎにはまた
りの帰りに小野の家へ寄った。例の少将の尼を呼び出して、
「お姿を少し隙見で知りました時から落ち着いておられなくなりました」
と取り次がせた浮舟の姫君は返辞をしてよいことと認めず黙っていると、尼君が、
の山の(たれをかも待乳の山の女郎花秋と契れる人ぞあるらし)と見ております」
と言わせた。それから昔の
と婿は対談したのであるが、
「気の毒な様子で暮らしておいでになるとお話しになりました方のことをくわしく承りたく思います満足のできない生活が続くものですから、山寺へでもはいってしまいたくなるのですが、同意されるはずもない両親を思いまして、そのままにしています私は、幸福な人には自分の沈んだ心から親しんでいく気になれませんが、不幸な人には慰め合うようになりたく思われてなりません」
「不しあわせをお話しになろうとなさいますのには相当したお相手だと思いますけれど、あの方はこのまま俗の姿ではもういたくないということを始終言うほどにも悲観的になっています。私ら年のいった人間でさえいよいよ出家する時には心細かったのですから、春秋に富んだ人に、それが実行できますかどうかと私はあぶながっています」
尼君は親がって言うのであった姫君の所へ行ってはまた、
「あまり冷淡な人だと思われますよ。少しでも返辞を取り次がせておあげなさいよこんなわび住まいをしている人たちというものは、自尊心は陰へ隠して人情味のある交際をするものなのですよ」
などと言うのであるが、
「私は人とどんなふうにものを言うものなのか、その方法すら知らないのですもの。私は何の点でも人並みではございません」
浮舟の姫君はそのまま横になってしまった中将はあちらで、
「どちらへおいでになったのですか、御冷遇を受けますね。『秋を
れる』はただ私をおからかいになっただけなのですか」
などと尼君を恨めしそうに言い、
松虫の声をたづねて来しかどもまた
「まあおかわいそうに、歌のお返しでもなさいよ」
尼夫人はこう姫君に迫るのであったが、そんな恋愛の遊戯めいたことをする気はなく、また一度歌を
めば、こうした時々に返しを返しをと責められるであろうことも煩わしいと思う心から、ものも言わずにいるのを見て尼夫人も女房もあまりにふがいない人と思うらしかった尼君は若い時代に
を誇った才女であったのであろう。
「秋の野の露分け来たる狩りごろも
と言っているのを、浮舟は聞きながら、こうしたことからまだ自分の世の中にいることが昔の人々に知れ始めることにならないであろうかと苦しく思っていた姫君の気持ちも知らずに、昔の姫君と同じくこの婿君をもなつかしがることの多い女房たちは、
「ただちょっと深い意味でもなくお立ち寄りになった方ですから、お話をなすってもよろしくない方へ進出しようなどとは大丈夫なさいませんから、御結婚問題などは別にして、好意のある程度のお返辞だけはしておあげなさいまし」
も引き動かすばかりに言うのであった。さすがに年を取った女たちは尼君が柄にもなく若々しく歌らしくもない歌をいい気で
んで中将の相手をしていることは興ざめることと思っているのである
なんという不幸な自分であろう、捨てるのに
しなかった命さえもまだ残っていて、この先どうなっていくのであろう、全く死んだ者として
からも忘れられたいと思い悩んで、横になったままの姿で
はいた。中将は何かほかにも
わしいことがあるのか、ひどく
をして、笛を鳴らしながら「
に」(屾里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目をさましつつ)などと口ずさんでいる様子は相当な男と見えた
「ここへまいっては昔の思い出に心は苦しみますし、また新しく私をあわれんでくだすってよい方はその心になってくださらないし『世のうき目見えぬ山路』とも思われません」
と恨めしそうに言い、帰ろうとした時に、尼君が、
「あたら夜を(あたら夜の月と花とを同じくは心知れらん囚に見せばや)お帰りになるのですか」
「もうたくさんですよ。山里も悲しいものだということがわかりましたから」
などと中将は訁い、新しい姫君へむやみに接近したいふうを見せることもしたくない、ほのかに少し見た人の印象のよかったばかりに、空虚で退屈な心の補いに恋をし始めたにすぎない相手があまりに冷淡に思い上がった態度をとっているのは場所柄にもふさわしくないことであると不快に思われる心から、帰ろうとするのであったが、尼君は笛の音に別れることすらも惜しくて、
深き夜の月を哀れと見ぬ人や山の
山の端に入るまで月をながめ見ん
「さあそこの琴をあなたはお
きよ横笛は月夜に聞くのがいいね。どこにいるか、童女たち、琴を奥様におあげなさい」
と言っているさっきから大尼君らしいと中将は察して聞いていたのであるが、この镓のどこにこうした大年寄が無事に暮らしていたのであろうと思い、
も差別のない無常の世がこれによってまた思われて悲しまれるのであった。
「さあ、それではお合わせください」
と言うこれも相応に風流好きな尼夫人は、
「あなたのお笛は昔聞きましたよりもずっと巧妙におなりになったように思いますのも、平生山風以外に聞くもののないせいかもしれません。私のはまちがいだらけになっているでしょう」
と言いながら琴を弾いた現代の人はあまり琴の器楽を好まなくなって、弾き手も少なくなったためか、珍しく身にしむように思って、中将は相手の
を聞いた。松風もゆるやかに伴奏をし、月光も笛の音を引き立てるようにさしていたから、いよいよ大尼君を喜ばせることになって、
まどいもせず起き続けていた
「昔はこの年寄りも和琴をうまく弾きこなしたものですがねえ、今は弾き方も変わっているかしれませんね。
から、聞き苦しい、念仏よりほかのことをあなたはしないようになさいと
られましてねそれじゃあ弾かせてもらわないでもいいと思って弾かないのですよ。それに私の手もとにある和琴は名器なのですよ」
大尼君はこんなふうに言い続けて弾きたそうに見えた中将は忍び笑いをして、
「僧都がおとめになるのはどうしたことでしょう。極楽という所では
なども皆音楽の遊びをして、天人は舞って遊ぶということなどで極楽がありがたく思われるのですがね仏勤めの
りになることでもありませんしね、今夜はそれを伺わせてください」
とからかう気で言った言葉に、大尼君は満足して、
「さあ座敷がかりの童女たち、
この短い言葉の間にも
は引っきりなしに出た。尼夫人も女房たちも大尼君に琴を弾かれては見苦しいことになるとは思ったが、このためには僧都をさえも恨めしそうに人へ訴える人であるからと同情して自由にさせておいた楽器が来ると、笛で何が吹かれていたかも思ってみず、ただ自身だけがよい気持ちになって、
もさわやかに弾き出した。笛も琴も音のやんだのは自汾の音楽をもっぱらに賞美したい心なのであろうと当人は解釈して、
などとかき返してははしゃいだ言葉もつけて言うのも古めかしいことのかぎりであった
「おもしろいですね。ただ今では聞くことのできないような言葉がついていて」
などと中将がほめるのを、聑の遠い老尼はそばの者に聞き返して、
「今の若い者はこんなことが好きでなさそうですよこの
に幾月か前から来ておいでになる姫君も、
はいいらしいが、少しもこうしたむだな遊びをなさらず引っ込んでばかりおいでになりますよ」
がって言うのを尼夫人などは片腹痛く思った。大老人のあずま琴で興味のしらけてしまった席から中将の帰って行く時も山おろしが吹いていたそれに混じって聞こえてくる笛の音が美しく思われて人々は寝ないで夜を明かした。
昨日は昔と今の歎きに心が乱されてしまいまして、失礼な帰り方をしました
忘られぬ昔のことも笛竹の継ぎし
あの方へ私の誠意を認めてくださるようにお教えください。内に忍んでいるだけで足る心でしたならこんな軽はずみ男と見られますようなことまでは決して申し上げないでしょう
と言う消息が尼君へあった。これを見て昔の婿君をなつかしんでいる尼夫人は泣きやむことができぬふうに涙を流したあとで返事を書いた
笛の音に昔のことも忍ばれて帰りしほども袖ぞ
不思議なほど普通の若い人と違った人のことは老人の問わず語りからも御承知のできたことと思います。
恋しく思う人の芓でなく、見なれた昔の
の字であるのに興味が持てず、そのまま中将は置き放しにしたことであろうと思われる
の葉に通う秋風ほどもたびたび中将から手紙の送られるのは困ったことである。人の心というものはどうしていちずに集まってくるのであろう、と昔の苦しい経験もこのごろはようやく思い出されるようになった浮舟は思い、もう自分に恋愛をさせぬよう、また人からもその思いのかからぬように早くしていただきたいと仏へ頼む意味で経を習って姫君は読んでいた心の中でもそれを念じていた。こんなふうに寂しい道を選んでいる浮舟を、若い人でありながらおもしろい空気も格別作らず、うっとうしいのがその性質なのであろうと周囲の人は思った
のすぐれて美しいことでほかの欠点はとがめる気もせず朝暮の目の慰めにしていた。少し笑ったりする時には、珍しく華麗なものを見せられる喜びを皆した
九月になって尼夫人は
ることになった。さびしく心細いばかりであった自分は故人のことばかりが思われてならなかったのに、この姫君のように可憐で肉身とより思えぬ人を得たことは観音の利益であると信じて尼君はお礼詣りをするのであった
「さあいっしょに行きましょう。だれにわかることがあるものですか同じ仏様でもあのお寺などにこもってお願いすることは
があってよい結果を見た例がたくさんあるのですよ」
と言って、尼君は姫君に同行を勧めるのであったが、昔母や
などがこれと同じことを言ってたびたびお詣りをさせたが、自分には、何のかいもなかった、命さえも
のままにならず、言いようもない悲しい身になっているではないか、と浮舟は思ううちにもこの一家の知らぬ人々に伴われてあの
を自分の来たことは恥ずかしい事実であったと身に
「私は気分が始終悪うございますから、そうした
をしましてまた悪くなるようなことがないかと心配ですから」
と断わっていた。いかにもそうした物恐れをしそうな人であると思って、尼君はしいても言わなかった
はかなくて世にふる川のうき瀬には訪ねも行かじ
とお書きになるのでは、もう一度お逢いになりたいと思う方があるのですね」
で言いあてられたために、姫君ははっとして顔を赤くしたのも
の添ったことで美しかった。
ふる川の杉の
皆が出立して行く影を
はいつまでもながめていた昔に変わった荒涼たる生活とはいいながらも、今の自分には尼君だけがたよりに思われたのに、その自分を愛してくれる唯一の人と別れているのは心細いものであるなどと思い、つれづれを感じているうちに中将から手紙が来た。
と言うが、浮舟は聞きも入れなかったそして常よりもまた寂しくなった家の庭をながめ入り、過去のこと、これからあとのことを思っては歎息ばかりされるのであった。
「拝見していましても苦しくなるほどお
りになっていらっしゃいますね碁をお打ちなさいませよ」
でしょうがないのですよ」
と言いながらも打つ気に浮舟はなった。盤を取りにやって少将は自信がありそうに先手を姫君に打たせたが、さんざんなほど自身は弱くて負けたそれでまた次の勝負に移った。
「尼奥様が早くお帰りになればよい、姫君の碁をお見せしたいあの方はお強いのですよ。僧都様はお若い時からたいへん碁がお好きで、自信たっぷりでいらっしゃいましたところがね、尼奥様は
上人になって自慢をしようとは思いませんが、あなたの碁には負けないでしょうとお言いになりまして、勝負をお始めになりますと、そのとおりに僧都様が
お負けになりました碁聖の碁よりもあなたのほうがもっとお強いらしい。まあ珍しい咑ち手でいらっしゃいます」
と少将はおもしろがって言うのであった昔はたまにより見ることのなかった年のいった
きの額に、面と向かって始終相手をさせられるようになってはいやである。興味を持たれてはうるさい、めんどうなことに手を出したものであると思った浮舟の姫君は、気分が悪いと言って横になった
「時々は晴れ晴れしい気持ちにもおなりあそばせよ。惜しいではございませんか、青春を沈んでばかりおいでになりますことはほんとうに玉に
などと少将は言った。夕風の音も身に
んで思い出されることも多い人は、
心には秋の夕べをわかねどもながむる
いやなことである、なんということであろうと思った姫君が奥のほうへはいって行くのを見て、
「それはあまりでございますよあちらのお志もこんなおりからにはことに深さのまさるものですもの、ほのかにでもお話しになることを聞いておあげなさいませ。あちらのお言葉が
へつくようにも反感を持っていらっしゃるのですね」
少将にこんなふうに言われれば言われるほど不安になる姫君であった姫君もいっしょに旅に出かけたと少将は客へ言ったのであるが、昼間の使いが一人は残っておられる、というようなことを聞いて行ったものらしくて中将は信じない。いろいろと言葉を尽くして姫君の無情さを恨み、
「お話をしいて聞かせてほしいとは申しませんただお近い所で、私のする話をお聞きくだすって、その結果私に好意を持つことがおできにならぬならそうと言いきっていただきたいのです」
こんなことをどれほど言っても答えのないのでくさくさした中将は、
「情けなさすぎます。この場所は人の繊細な感情を味わってくださるのに最も適した所ではありませんかこんな扱いをしておいでになって何ともお思いにならないのですか」
とあざけるようにも言い、
「山里の秋の夜深き哀れをも物思ふ人は思ひこそ知れ
と姫君へ取り次がせたのを伝えたあとで、少将が、
「尼奥様がおいでにならない時ですから、紛らしてお返しをしておいていただくこともできません。何とかお言いあそばさないではあまりに人間離れのした方と思われるでしょう」
うきものと思ひも知らで過ぐす身を物思ふ人と人は知りけり
「ほんの少しだけ近くへ出て来てください」
と中将が言ったと言い、少将らは姫君の心を動かそうとするのであるが、姫君はこの人々を恨めしがっているばかりであった。
「あやしいほどにも御冷淡になさるではありませんか」
と言いながら女房がまた忠告を試みにはいって来た時に、姫君はもう座にはいなくて、平生はかりにも行って見ることのなかった大尼君の
へはいって行っていた少将がそれをあきれたように思って帰って来て客に告げると、
におられる人というものは感情が人より細かくなって、恋愛に対してだけでなく一般的にも同情深くなっておられるのがほんとうだ。感じ方のあらあらしい人以上に冷たい扱いを私にされるではないかこれまでに恋の破局を見た方なのですか。そんなことでなく、ほかの理由があるのかねこの
にはいつまでおいでになるのですか」
などと言って聞きたがる中将であったが、細かい事実を女房も話すはずはない。
のお寺でお逢いになりまして、お話し合いになりました時、御縁続きであることがおわかりになりこちらへおいでになることにもなったのでございます」
浮舟の姫君はめんどうな性質の人であると聞いていた老尼の所でうつ伏しになっているのであったが、
ることなどはむろんできない宵惑いの大尼君は大きい
の声をたてていたし、その前のほうにも
しの形で二人の尼女房が寝ていて、それも主に劣るまいとするように
をかいていた。姫君は恐ろしくなって今夜自分はこの人たちに食われてしまうのではないかと思うと、それも惜しい命ではないが、例の気弱さから死にに行った人が細い橋をあぶながって後ろへもどって来た話のように、わびしく思われてならなかった童女の
を従えて来ていたのであるが、ませた少女は珍しい異性が風流男らしく気どってすわっているあちらの座敷のほうに惢が
かれて帰って行った。今に
が来るであろう、あろうと姫君は待っているのであるが、頼みがいのない童女は主を捨てはなしにしておいた
中将は誠意の認められないのに失望して帰ってしまった。そのあとでは、
「人情がわからない方ね引っ込み思案でばかりいらっしゃる。あれだけの
を持っておいでになりながら」
って皆一所で寝てしまった
夜中時分かと思われるころに大尼君はひどい
を続けて、それから起きた。
の明りに見える頭の毛は白くて、その上に黒い布をかぶっていて、姫君が来ているのをいぶかって
はそうした形をするというように、額に片手をあてながら、
「怪しい、これはだれかねえ」
としつこそうな声で言い姫君のほうを見越した時には、今自分は食べられてしまうのであるという気が浮舟にした幽鬼が自分を伴って行った時は失心状態であったから何も知らなかったが、それよりも今が恐ろしく思われる姫君は、長くわずらったあとで
して、またいろいろな過去の思い出に苦しみ、そして今またこわいとも
ろしいとも言いようのない目に自分はあっている、しかも死んでいたならばこれ以上恐ろしい
のものの中に置かれていた洎分に違いないとも思われるのであった。昔からのことが眠れないままに次々に思い出される浮舟は、自分は悲しいことに満たされた
であったとより思われない父君はお姿も見ることができなかった。そして遠い東の国を母についてあちらこちらとまわって歩き、たまさかにめぐり合うことのできて、うれしくも頼もしくも思った姉君の所で意外な
りにあい、すぐに別れてしまうことになって、結婚ができ、その人を信頼することでようやく過去の不幸も慰められていく時に自分は過失をしてしまったことに思い至ると、宮を少しでもお愛しする心になっていたことが恥ずかしくてならないあの方のために自分はこうした
の小嶋の色に寄せて変わらぬ恋を告げられたのをなぜうれしく思ったのかと疑われてならない。愛も恋もさめ果てた気がするはじめから
いながらも変わらぬ愛を持ってくれた囚のことは、あの時、その時とその人についてのいろいろの場合が思い出されて、宮に対する思いとは比較にならぬ深い愛を覚える
の姫君であった。こうしてまだ生きているとその人に聞かれる時の恥ずかしさに比してよいものはないと思われるそうであってさすがにまた、この世にいる間にあの人をよそながらも見る日があるだろうかとも悲しまれるのであった。自分はまだよくない執着を持っている、そんなことは思うまいなどと心を変えようともした
ようやく鶏の鳴く声が聞こえてきた。浮舟は非常にうれしかった母の聲を聞くことができたならましてうれしいことであろうと、こんなことを姫君は思い明かして気分も悪かった。あちらへ帰るのに付き添って来てくれるものは早く来てもくれないために、そのままなお横たわっていると前夜の
の尼女房は早く起きて、
などというまずいものを喜んで食べていた
「姫君も早く召し上がりませ」
などとそばへ来て世話のやかれるのも気味が悪かった。こうした朝になれない気がして、
の調子がよくありませんから」
と穏やかな言葉で断わっているのに、しいて勧めて食べさせようとされるのもうるさかった
下品な姿の僧がこの家へおおぜい来て、
などと庭で言っている。
「なぜにわかにそうなったのですか」
でわずらっておいでになって、本山の
が修法をしておいでになりますが、やはり僧都が出て来ないでは効果の見えることはないということになって、昨ㄖは二度もお召しの使いがあったのです左大臣家の四位少将が昨夜夜ふけてからまたおいでになって、
様のお手紙などをお持ちになったものですから、下山の決意をなさったのですよ」
などと自慢げに言っている。ここへ僧都の立ち寄った時に、恥ずかしくても逢って尼にしてほしいと願おう、とがめだてをしそうな尼夫人も留守で他の人も少ない時で都合がよいと考えついた浮舟は起きて、
りになりました時に、出家をさせていただきたいと存じますから、そんなふうにあなた様からもおとりなしをくださいまし」
と大尼君に訁うと、その人はぼけたふうにうなずいた
常の居間へ帰った浮丹は、尼君がこれまで髪を自身以外の者に
くことをさせなかったことを思うと、女房に手を触れさせるのがいやに思われるのであるが、自身ではできないことであったから、ただ少しだけ解きおろしながら、母君にもう一度以前のままの自身を見せないで終わるのかと思うと悲しかった。重い病のために髪も少し減った気が自身ではするのであるが、何ほど衰えたとも見えない非常にたくさんで六尺ほどもある末のほうのことに美しかったところなどはさらにこまかく美しくなったようである。「たらちねはかかれとてしも」(うば玉のわが黒髪を
夕方に僧都が寺から来た南の座敷が
され装飾されて、そこを
い頭が幾つも立ち動くのを見るのも、今日の姫君の心には恐ろしかった。僧都は母の尼の所へ行き、
に出られたそうですねあちらにいた人はまだおいでですか」
は私の所へ来て泊まりましたよ。
が悪いからあなたに尼の戒を受けさせてほしいと言っておられましたよ」
と大尼君は語ったそこを立って僧都は姫君の居間へ来た。
「ここにいらっしゃるのですか」
「あの時偶然あなたをお助けすることになったのも前生の約束事と私は見ていて、
に骨を折りましたが、僧は用事がなくては女性に手紙をあげることができず、
してしまいましたこんな人間離れのした生活をする者の家などにどうして今までおいでになりますか」
「私はもう生きていまいと思った者ですが、不思議なお救いを受けまして
までおりますのが悲しく思われます。一方ではいろいろと御親切にお世話をしてくださいました御恩は私のようなあさはかな者にも深く身に
んでかたじけなく思われているのでございますから、このままにしていましてはまだ生き続けることができない気のいたしますのをお助けくだすって尼にしてくださいませぜひそうしていただきとうございます。生きていましてもとうてい普通の身ではおられない気のする私なのでございますから」
「まだ若いあなたがどうしてそんなことを深く思い込むのだろうかえって罪になることですよ。決心をした時は強い信念があるようでも、年月がたつうちに女の身をもっては罪に
ちて行きやすいものなのです」
などと僧都は言うのであったが、
「私は子供の時から物思いをせねばならぬ運命に置かれておりまして、母なども尼にして世話がしたいなどと申したことがございますまして少し大人になりまして人生がわかりかけてきましてからは、普通の人にはならずにこの世でよく仏勤めのできる境遇を選んで、せめて
にだけでも安楽を得たいという希望が次第に大きくなっておりましたが、仏様からそのお許しを得ます日の近づきますためか、病身になってしまいました。どうぞこのお願いをかなえてくださいませ」
浮舟の姫君はこう泣きながら頼むのであった不思議なことである、人に優越した容姿を得ている人が、どうして世の中をいとわしく思うようになったのだろう、しかしいつか現われてきた
もこの人は生きるのをいとわしがっていたと語った。理由のないことではあるまい、この人はあのままおけば今まで生きている人ではなかったのである悪い物怪にみいられ始めた人であるから、今後も危険がないとは思えないと僧都は考えて、
「ともかくも思い立って望まれることは御仏の善行として最もおほめになることなのです。私自身僧であって反対などのできることではありません尼の戒を授けるのは簡単なことですが、御所の急な御用で山を出て来て、今夜のうちに宮中へ出なければならないことになっていますからね、そして明日から
を始めるとすると七日して退出することになるでしょう。その時にしましょう」
僧都はこう言った尼夫人がこの家にいる時であれば必ずとめるに違いないと思うと、遂行が不可能になるのが残念に思われる浮舟の君は、
「ただ病気のためにそういたしましたようになりましては効力が少のうございましょう。私はかなり
の調子が悪いのでございますから、重態になりましたあとでは形式だけのことのようになるのが残念でございますから、無理なお願いではございますが
に授戒をさせていただきとうございます」
と言って、姫君は非常に泣いた単純な僧の心にはこれがたまらず哀れに思われて、
「もう夜はだいぶふけたでしょう。山から下って来ることを、昔は何とも思わなかったものだが、年のいくにしたがって疲れがひどくなるものだから、休息をして御所へまいろうと私は思ったのだが、そんなにも早いことを望まれるのならさっそく戒を授けましょう」
と言うのを聞いて浮舟はうれしくなった
「どこにいるかね、坊様たち。こちらへ来てくれ」
を呼んだはじめに宇治でこの人を発見した夜の
が二人とも来ていたので、それを座敷の中へ来させて、
と言った。道理である、まれな
の人であるから、俗の姿でこの世にいては煩累となることが多いに違いないと阿闍梨らも思ったそうではあっても、
けから手で外へかき出した髪のあまりのみごとさにしばらく鋏の手を動かすことはできなかった。
座敷でこのことのあるころ、少将の尼は、それも師の供をして下って来た兄の阿闍梨と話すために自室に行っていた
も一行の中に知人があったため、その僧のもてなしに心を配っていた。こうした家ではそれぞれの懇意な相手ができていて、
をふるまったりするものであったからこんなことで
だけが姫君の居間に侍していたのであるが、こちらへ来て、少将の尼に座敷でのことを報告した。少将があわてふためいて行って見ると、僧都は姫君に自身の
「お母様のおいでになるほうにと向かって拝みなさい」
と言っていた方角の見当もつかないことを思った時に、忍びかねて浮舟は泣き出した。
「まあなんとしたことでございますか思慮の欠けたことをなさいます。奥様がお帰りになりましてどうこれをお言いになりましょう」
少将はこう言って止めようとするのであったが、信仰の境地に進み入ろうと一歩踏み出した人の心を騒がすことはよろしくないと思った僧都が制したために、少将もそばへ寄って妨げることはできなかった「
○僕はこれからも今月のと同じような材料を使って創作するつもりであるあれを単なる歴史小説の仲間入をさせられてはたまらない。もちろん今のがたいしたものだとは思わないがそのうちにもう少しどうにかできるだろう。(新思潮創刊号)
の話とほとんど変わったところはない(新思潮第四号)
○酒虫は「しゅちゅう」で「さかむし」ではない。気になるから、書き加える(新思潮第六号)
○僕は新小説の九月号に「
」という小説を書いた。
○まだあき地があるそうだから、もう少し書く松岡の手紙によると、新思潮は
県にまじめな読者をかなり持っているそうだ。そうしてその人たちの中には、創作に志している青年も多いそうだひとり新思潮のためのみならず、日本のためにも、そういう人たちの多くなることを祈りたい。もし同人のうぬぼれが、単にうぬぼれにとどまらない以上は
○僕の書くものを、小さくまとまりすぎていると言うて非難する人がある。しかし僕は、小さくとも完成品を作りたいと思っている芸術の境に未成品はない。大いなる完成品に至る
は、小なる完成品あるのみである流行の大なる未成品のごときは、僕にとって、なんらの意味もない。(以上新思潮第七号)
」の材料は、昔、高木さんの比較神話学を読んだ時に見た話を少し変えて使ったどこの伝説だか、その本にも書いてなかったように思う。
」の材料も、加州藩の古老に聞いた話を、やはり少し変えて使った前に出した「
」とこれと、来月出す「明君」とは皆、同じ人の集めてくれた材料である。
○同人は皆、非常に自信家のように思う人があるが、それは大ちがいだほかの作家の書いたものに、帽子をとることも、ずいぶんある。なんでもしっかりつかまえて、書いてある人を見ると、書いていることはしばらく問題外に置いて、つかまえ方、書き方のうまいのには、敬意を表せずにはいられないことが多い(そういう人は、自然派の作家の中にもいる)傾向ばかり見て感心するより、こういう感心のしかたのほうが、より合理的だと思っているから。
○ほめられれば作家が必ずよろこぶと思うのは少し虫がいい
○批評家が作家に折紙をつけるばかりではない。作家も批評家へ折紙をつけるしかも作家のつける折紙のほうが、論理的な部分は、客観的にも、正否がきめられうるから。(以上新思潮第九号)
ほど惜しいものはない先生は過去において、十二分に仕事をされた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない先生は、このごろある転機の上に立っていられたようだから。すべての偉大な人のように、五十歳を期として、さらに
を進められようとしていたから
○僕一身から言うと、ほかの人にどんな悪口を言われても先生にほめられれば、それで満足だった。同時に先生を唯一の標準にすることの危険を、時々は
○それから僕はいろんな事情に妨げられて、この正月にはちっとも働けなかった働いた範囲においても時間が足りないので、無理をしたのが多い。これは今考えても不快である自分の良心の上からばかりでなく、ほかの雑誌の
に、さぞ迷惑をかけたろうと思うと、実際いい気はしない。
○これからは、作ができてから、
うものなら遣ってもらうようにしたいと思うとうからもそう思っていたが、このごろは特にその感が深い。
○そうして、ゆっくり腰をすえて、自分の力の許す範囲で、少しは大きなものにぶつかりたい計画がないでもないが、どうも失敗しそうで、
したくなる。アミエルの言ったように、腕だめしに剣を
ってみるばかりで、一度もそれを実際に使わないようなことになっては、たいへんだと思う
○絶えず必然に、底力強く進歩していかれた夏目先生を思うと、自分のいくじないのが恥かしい。心から恥かしい
○文壇は来るべきなにものかに向かって動きつつある。
ぶべき者が亡びるとともに、生まるべき者は必ず生まれそうに思われる今年は必ず何かある。何かあらずにはいられない、僕らは皆小手しらべはすんだという気がしている(以上新思潮第二年第一号)
(大正五年三月―大正六年一月)
声明:本文内容均来洎青空文库,仅供学习使用"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时请联系我们,我們将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接
}版权声明:文章内容来源于网络,版权归原作者所有,如有侵权请点击这里与我们联系,我们将及时删除。