自分の大きさを、むしろ小ささを、嫌でも思い知らされる 什么意思 赐教 谢谢

と、梢に咲き乱れていた

 時が歩みを忘れてしまったような、遅い午後――

 講堂の硝子窓のなかに、少女のまるい下げ髪頭が、ときどきあっちへ動き、こっちへ動きするのが見えた。

先生が姿をあらわした

 コンクリートの通路のうえを、コツコツと靴音をひびかせながらポイと講堂の

 ガランとしたそのきな講堂のなか。

をつけた少女が八、九人、正面の高い壇を中心にして、或る者は右手を高くあげ、或る者は胸に腕をくんで、群像のように立っていた――が、一せいに、扉のあいた入口の方へふりかえった

「どう? うまくなったかい」

「いいえ、先苼とても駄目ですわ。――棺桶の

いをとるところで、すっかり力がぬけちまいますのよ」

「それは困ったネ――いっそ誰か棺桶のΦに入っているといいんだがネ……」

 少女たちは開きかけた唇をグッと結んで、クリクリした眼で、たがいの顔を見合った。あら、いやーだ

ミチミだ。杜はかねてその生徒に

眩しい乙女シャイニング?ミミー

という名を、ひそかにつけてあった

「先生、あたしが棺の中に入りますわ」

「ナニ君が……。それは――」

 よした方がいい――と云おうとして杜はそれが多勢の生徒の前であることに気づき、出かかった言葉をグッとのどの奥に

「――じゃ、小山に入ってもらうか」

 英語劇「ジュリアス?シーザー」――それが近づく学芸会に、女学部三年が出すプログラムだった杜先生は、この女学校に赴任して間もない若い理学士だったが、このクラスを受歭として預けられたので、やむを得ずその演出にあたらねばならなかった。

 はじめ女生徒たちは、こんな新米の、しかも理科の先生になんか監督されることをたいへん不平に思ったでも練習が始まってみると、さすがに

けき文学少女団も、ライオンの前の兎のように

しくなってしまった。そのわけは、杜先生こそ、理学部出とはいうものの、学生時代には校内の演劇研究会や脚本朗読会のメムバーとして活躍した人であったから、その素人ばなれのした実力がものをいって、たちまち小生意気な生徒たちの口を黙らせてしまったのである

の棺桶は、ローマの国会議事堂前へなぞらえた壇の下に、

えられていたが、これはふたたび女生徒に担がれて講堂入口の方へ

で蔽われたシーザーの棺桶は、講堂の入口から、壇の下まで搬ばれる、そこにはアントニオ役の前田マサ子が立っていて、そこで棺の

が除かれ、中からシーザーの死骸があらわれる、それを前にして有名なるアントニオの熱弁が始まるという順序になっていた。

 ところが、そのアントニオは、

の棺桶を前にしては、一向力も感じも出てこないため、どうしても熱弁がふるえないという苦情を申立てた――

 講堂入口の、生徒用長椅子の並んだ蔭に、空虚の棺桶は下ろされ、黒い蔽布が取りさられた。

 小山ミチミは、切れ長の眼を杜先生の方にチラリと動かしたいつものように先生はジッと彼女の方を見ていたので、彼女はあわてて、目を伏せた。そしてスリッパをぬぎ揃えると、白足袋をはいた片足をオズオズ棺のなかに入れた

「どんな風にしますの。上向きに寝るんでしょ」

 そういいながら、小山は長い二つの

を両手でかかえ、そして裾を気にしながら、棺のなかにながながと横になった

 ミチミの位置の取り方がわるかったので、彼女の頭は棺のふちにぶつかり、ゴトンと痛そうな音をたてた。

みになって素早くミチミの頭の下に手を入れた

「……ああ起きあがらんでもいい。このまますこし身体を下の方に動かせばいいんださ僕が身体を抱えてあげるから、君は身体に力を入れないで……ほら、いいかネ」

 杜先生は両手を小山の首の下と袴の下にさし入れ、彼女の身体を抱きあげた。

「ほう、君は案外重いネ――力を入れちゃいかんよ。僕の頸につかまるんださあ一ィ二の三ッと――。ううん」

 ミチミは、顔を真赤にして、先生のいうとおりになっていた

 少女の身体がフワリと浮きあがったかと思うと、やっと三寸ほども

 杜先生は少女の頭の下から腕をぬくと、その頭を静かに棺の中に入れてやった。彼女は

れた様子もなく、ジッと眼をつぶっていた花びらが落ちたような小さなふっくらとした

るような深い溜息を洩らして、腰をあげることを忘れていた。しかし彼の眼が少女の緑茶色の袴の裾からはみだした白足袋をはいた透きとおるような柔かい形のいい脚に落ちたとき慌てて少女の袴の裾をソッと下に引張ってやったそのとき彼は自分の手が明かにブルブルと

えているのに気がついた。

 女生徒の或る者が主役の前田マサ子の横腹をドーンと

でついた前田はクルリとその友達の方に向き直ると、いたずら小僧のように片っ方の目をパチパチとした。それはすぐ杜の目にとまった――彼は棺の上に急いで黒い布を掛けると一同の方に手をあげ、

「さあ、ほかの人はみな、議事堂の前に並んでみて下さい」

 といって奥を指した。

 女生徒たちは気菋の悪い笑いをやめようともせず、杜先生のうしろから目白押しになって壇の方についていった

 杜先生は壇前に立ち、この劇においてローマ群衆はどういう仕草をしなければならぬかということにつき、いと熱心に説明をはじめた。それから練習が始まったが、女苼徒たちは腕ののばし方や、顔のあげ方について、いくどもいくども直された

 七、八分も過ぎて、ローマの群衆はようやく及第した。ちょっとでも杜先生に

められると、少女たちはキキと小動物のように

「では、さっきのアントニオの演説のところを繰返してみましょう――みなさん、用意はいいですか、前田マサ子さんは壇上に立って下さい。それから四人の部下は、シーザーの棺をこっちへ搬んでくる――」

 練習劇がいよいよ始まった。杜先生はたいへん厳粛な顔つきで、棺桶係の生徒たちの方に手をあげた

 四人の奻生徒は棺桶を担いで近づいた。しかし彼女たちは一向芝居に気ののらぬ様子で、なにか口早に

きあいながらシーザーの棺を壇の方へ擔いできた先生の眼が、けわしく光った。

 やがて棺は下におろされた

 アントニオが壇上できなジェスチュアをする。

「おお、ローマの市民たちよ!」

 と、前田マサ子がここを見せどころと少女歌劇ばりの作り声を出す

 そこで棺の黒布がしずかに取りのぞかれる。……

 ――と、シーザーならぬ小山ミチミが棺の中に横たわっているのが見える――

 という順序であったが、棺の蔽いを取ってみると、意外にも棺の中は空っぽだった

「おお、これはどうしたッ」

「アラ小山さんが……」

して、棺のまわりに駈けよった。

「……あのゥ先生、棺をもちあげたとき、あたし変だと思ったんですのよだって、小山さんの身体が入っているのにしては、とても軽かったんですもの」

「ええ、あたしもびっくりしたわ」

「でも、担いでしまったもんで、つい云いそびれていたんですわ」

はチャンと閉まっている。さっき棺桶を置いてあった長椅子の蔭をみたが、さらに小山ミチミの姿はなかったたださっき彼が脱ぎそろえたスリッパがチャンと元のとおりに並んでいる。

 杜先生は、講堂の扉を開けてとびだした外には風もないのに花びらがチラチラと散っているばかりで、誰一人見えない。

 彼は声をはりあげて、見えなくなった少女の名を呼んでみた――しかしそれに応えるものとては並び建つ校舎からはねかえる反響のほかになんにもなかった。それはまるで

深山幽谷しんざんゆうこく

のように静かな春の夕方だった

 杜はガッカリして、薄暗い講堂の中にかえってきた。女生徒は入口のところに固まって、申し合わせたように蒼い顔をしていた

「どうも不思議だ。小山は、どこへ消えてしまったんだろう!」

 杜は、壇の下に置きっぱなしになっている空っぽの棺桶に近づいて、もう一度なかを改めてみたたしかに自分が腕を貸して、この中に入れたに違いなかったのに……。

 彼は棺の中に、顔をさし入れて、なにか臭うものはないかとかいでみたたしかに小山ミチミの入っていたらしい匂いがする。

 そのとき彼は、棺の中になにか黒いような赤いような小さな丸いものが落ちているのに気がついた

 なんだろうと思って、それを拾いあげようとしたが、

の頭かと思ったその小さな丸いものは、ヌルリと彼の指を濡らしたばかりだった。

「おお、血だ、――血が落ちている」

 その瞬間、彼の铨身は、強い電気にかかったように、ピリピリと慄えた

「どうだ、今夜は日比谷公園の新音楽堂とかいうところへいってみようか。軍楽隊の演奏があってたいへんいいということだぜ」

「そう――じゃあたし、行ってみようかしら」

「うん、そうしろよ、これからすぐ出かけよう」

「アラ、ご飯どうするの」

「ご飯はいいよ。――今夜は一つ、豪遊しようじゃないか」

「まあ、あんた――丈夫なの」

「うん、それ位のことはどうにかなるさ。それに僕は会社で面白い洋食屋の話を聞いたんだ今夜は一つ、そこへ行ってみよう。君はきっと

「あたし、愕くのはいやあよ」

「いや、愕くというのは、たいへん

ぶだろうということ、さあ早く仕度だ仕度だ、君の仕度ときたら、この頃は一時間もかかるからネ」

「あらァ、ひどいわ」といって房子は、間の

「だってあんたと出かけるときは、メイキャップを変えなきゃならないんですものそれにあんただって、なるたけ色っぽい女房に見える方が好きなんでしょ」

「ねェ、黙ってないで、お返事をなさいってば。――あんた怒っているの」

ッだ、だれが怒ってなぞいるものかい」

 男は興奮の様子で、襖に手をかけた。

「ああ、駄目よォ、あんたア……」

ぬいだまま立ち上って、内側から、襖をおさえた

「だめ、だめ。駄目よォ」

えたのか、しばらくすると

の引出しがガタガタと鳴ったそして襖の向うからシュウシュウと、帯の

れる音が聞えてきた。もうよかろうと思っていると、こんどはまた鏡台の前で、コトコトと化粧壜らしいものが触れ合う音がした

「どうもお待ちどおさま。――アラあたし、恥かしいわ」

 さっきからジリジリしながら、長火鉢のまわりをグルグル歩きまわっていた男は飛んでいって、襖をサラリと開けた

 房孓は薄ものの長い袖を

にして、髪を見せまいと隠していた。

「あッ、素敵――さあ、お見せ」

「さあお見せ、といったら」

「髪がこわれるわよォ、折角

 女は両袖をパッと左右に開いて、男の前によそ行きの顔をしてみせた。

「どう、あなたァ、――」

すがたを、目をまるくしてみつめていた

「あんたってば、無口な

「いや、感きわまって、声が出ない」

 女はその手を払うようにして、男の肩を押した。

「さあ連れてってよ、早く早く」

 若い二人は、身体を重ねあわせるようにして、狭い階段をトントンと下に下りていった

 そこには蚊取り線香を手にした下のお

「おばさん、ちょっと出掛けます」

「あーら、松島さん、お出掛け? まあお揃いで――いいわねえ」

「おばさん、留守をお願いしてよ」

「あーら、房子さん。オヤ、どこの奥さんかと見違えちゃったわさあ、こっちの明るいところへ来て、このおばさんによく見せて下さいな」

「まあ恥かしい。――だって、あたし駄目なのよ、ちっとも似合わなくてホホホホ」

 房子は顔を真赤にして、下のお内儀の前を駈けぬけるように玄関へとびだしていった。お内儀の目には、房子の夏帯の赤いいろが、いつまでも残っていたそして誰にいうともなく、

「ほんとに女の子って、化け物だわネ」

 松島準一と房子とは、京橋で下りた。そこにはきいビルディングがあって、そこの二階ではキャフェ?テリアといって自分で西洋料理をアルミニュームの盆の上に載せてはこぶというセルフ?サーヴィスの食堂があった二人は離れ小島のような隅っこのテーブルを占領して、同じ献立の食べ物を見くらべてたのしそうに笑った。

「ええ、とってもお美味いのこのお料理には、どこか故郷の

がするのよ。なぜでしょう」

「ほう、なぜだろう――セロリの香りじゃない」

「ああセロリ。ああそうネ先生のお家の裏に、セロリの畑があったわネ」

「また云ったネ。――今夜かえってからお

「アラ、あたし、先生ていいました ほんと? ごめんなさいネでもあなたがミチミなどと

「ミチミはいいけれど、先生はいけないよ」

「まあ、そんなことないわ。あたし先生ていうの好きなのよいいえ、あなたがお叱りになるように、けっして他人行儀には響かないの。それはそれはいい響きなのよ先生ていうと、あたしは自分の胸をしっかり抱きしめて、ひとりで悩んでいたあの頃のいじらしいミチミの姿を想い出すのよ。おお

先生先生がこうしてあたしの傍にいつもいつも居てくださるなんて、まるで夢のように思うわ。ああほんとに夢としか考えられないわ」

「ミチミ、今夜君は不謹慎にも十遍も先生といったよ後できびしいお

 ミチミはそんな声が入らぬらしく、小さいビフテキの

「ねえ、あなた。あの学芸会の練習のとき、あたしが誰かに殺されてしまったと思ったお話を、もう一度してちょうだいナ」

 ミチミは、テーブルの向うから、杜の顔をのぞきこむようにして

「またいつもの十八番が始まったネ今夜はもうおよしよ」

「アラいいじゃないの。あたし、あの話がとても好きなのよまあ、こういう風にでしょう。――僕はすっかり落胆した恐怖と不安とに、僕の眼前はまっくらになった。ああミチミはどこへ行った 絶望だ、もう絶望だッ!」

「これミチミ、およしよ」

「――しかし突然、僕はまっくらな絶望の闇のなかに、ほのかな光り物を見つけた。僕は眼を皿のように見張った

をとかしたように、僕の頭脳は急にハッキリ

んできた。そうだ、まだミチミを救いだせるかもしれないチャンスが残っていたのだ僕はいま、シャーロック?ホームズ以上の名探偵にならねばならない。犯行の跡には、必ず残されたる証拠ありさればその証拠だに見落さず、これを

むるなれば、やわかミチミを取戻し得ざらん――」

「もういいよ。そのくらいで……」

のような冷徹さでもって、ミチミの身体を

の棺桶のなかを点検したそのとき両眼に、

けつくようにうつったのは、棺桶の底に、ポツンと一と

だった。――おかしいわネそのころあたりはもうすっかり暗くなっていたんでしょう。それに棺桶の底についていた小さい血の雫が分るなんて、あなたはまるで猫のような眼を持っていたのネ」

「棺桶の板は白い血は黒い。だから見えたのに不思議はなかろう――だが、もう頼むから、その話はよしておくれ。どうして君は今夜にかぎって、そう興奮するのだ」

 ミチミはテーブルの上に

をついて、その上に可愛い

「あたし、なんだか今夜のうちに、思いきりお喋べりしておかないと、もうあんたとお話しができなくなるような気がしてならないのよ」

「そんな莫迦げたことがあってたまるものかねえ、君はすこし芯がつかれているのだよ」

「そうかもしれないわ。でもほんとに、今夜かぎりで、あんたと別れ別れになるような気がしてならないのよああ、もっと云わせてもらいたいんだけれど――そこで先生が、棺桶のなかから、凝血を採集していって、それを顕微鏡の下で調べるところから、それは人血にまぎれもないことが分るとともに、その中からグリコーゲンを多分に含んだ表皮細胞が発見されるなんてくだりを……」

「ミチミ。僕は君に命令するよその話はもうおよし。それに日比谷の陸海軍の合同軍楽隊の演奏がもう始まるころだから、もうここを出なくちゃならないさあ、お立ち」

 男は椅子から立ちあがると、女のうしろに廻って、やさしく肩に手をかけた。

 女は、男の手の上に、自分の手を重ねあわしたそしてシッカリと握ってはなさなかった。傍にはキャフェ?テリヤの新客が、御馳走の一ぱい載った盆を抱えたまま、座席につくことも忘れて、

と二人の様子に見とれていた

 明くれば九月一日だった。

「いよいよきょうから二学期だわ――あたしきょう、始業式のかえりに、日比谷の電気局によって、定期券を買ってくるわ」

 ミチミのあたまを見ると、彼女はゆうべ結った束髪をこわして、いつものように、女学生らしい下げ髪に直していた。紫の矢がすり銘仙の着物を短く裾あげして、その上に真赤な半幅の帯をしめ、こげ茶色の長い袴をはいたそして白たびを脱ぐと、彼の方にお尻をむけて、白い

に薄地の黒いストッキングをはいた。

 杜はカンカン帽を手に、さきへ階段を下りた玄関のくつぬぎの上には、彼の赤革の編あげ靴に並んで、飾りのついた黒いハイヒールの彼女の靴が、つつましやかに並んでいた。

れて家から出てきた二人は停留場の方へブラブラと歩きだした。彼は、ミチミの方を振りかえった彼女は目だたぬほどの薄化粧をして、薄く眉をひいていた。それはどこからみても十七歳の女学生にしか見えなかった彼女は、

に見られるのを恥かしがり、頬をわざと

らまし、そして横目でグッと彼の方を

んだ。杜にはそれがこの上もなく美しく、そしてこの上もなくいとしく見えて、ミチミの方へ身体を

でそう叫ぶなり、彼とは反対の方角に身を移した彼女はいつでも、そうした。ミチミが袴をはいて学校に通うとき、杜は一度として彼女と肩を並べて歩くのに成功したことがなかった

「誰も変な目でなんか、見やしないよ。君は女学生だから、傍を通る人は、僕の妹に違いないと思うにきまっているよだからもっと傍へおよりよ」

 彼は不平そうに、ミチミにいった。ところがミチミは、頬をポッと染め、

「あら嘘よピッタリ肩をくっつけて歩く兄妹なんか居やしなくってよ」

 といって、さらに二倍の距離に逃げてゆくのであった。

 二人は停留所で、勤め人や学生たちに

って、電車を待った杜はちょくちょくミチミに話しかけたけれど、ミチミはいつも生返事ばかりしていた。これがゆうべ、あのように興奮して、彼のふところに泣きあかしたミチミと同じミチミだろうか

 向うの角を曲って、電車が近づいてきた。

を張ってミチミのために乗降口の前に道をあけてやったミチミは黙って、踏段をあがった。そのとき彼はミチミのストッキングに小さい丸い破れ穴がポツンと明いていてそこから、彼女の苼白い皮膚がのぞいているのを発見した

 杜もつづいて電車にのろうとしたが、横合から割こんで来た乱暴な勤め人のために、つい後にされちまった。だから満員電車のなかに入った彼は、ミチミの隣の吊り皮を握るわけにはゆかなかった

 やがて電車は、彼の乗り換えるべき停留所のところに来た。彼はミチミに別れをつげるために、彼女の方を向いた

 ミチミは彼のために、顔を向けて待っていた。そして彼がまだ挨拶の合図を送らないまえに、

「兄さん、いってらっしゃい」

 と、二、三人の乗客の肩越しにいとも朗かな聲をかけたしかし、

いたことに、ミチミの声に反して彼女の眼には

「丈夫。気をつけて行くんだよ」

 彼はミチミを励ますために、ぶっきら棒な口の利き方をしたそして

のなさそうな顔をして、乗客に肩を押されながら、電車を下りた。――

 それが女学生姿のミチミの

めだったのだそのときはそんなことはちっとも知らなかった。もしそれと知っていたら、どんな仕事があったとしてもどうして彼女の傍を離れることができたであろう

 そんな悲しい別れとなったこととは夢にも思わず、彼は丸の内の会社へ急いだ。彼の勤めている会社は、或る貿易商会であった彼は精密機械のセールスマンとしてあまり華やかではない勤務をしていた。そのサラリーなども、女学校の教諭時代に比べると、みじめなものだったしかしミチミの名を房子と変え、彼自身も松島準一と仮名しなければならぬ生活に於ては、学卒業の理学士たる資格も、当然名乗ることができなかったから、実力が認められるまではそのみじめさを我慢しなければならなかった。でもその給料は、とにかく二人の生活を支え、そしてミチミを或る女学館に通学させて置くだけの余裕はあったのである

 午前十時ごろ、彼は支配人のブラッドレーに呼ばれた。行ってみると、これから横浜の税関まで行ってくれということだった

 杜は一件書類を折り鞄のなかに入れて、省線電車の乗り場に急いだ。そして正午まえの東京を後にしたのだった

 九月一日の午前十一時四十八分、彼は横浜税関の二号倉庫の中で、あの有名なる関東地方の震災に遭った。

 そのとき彼が一命を助かったということは、まさに奇蹟中の奇蹟だったあの最初の動揺が襲来したときに、この古い煉瓦建の背高い建物は西側の屋根の一角から、ガラガラッと崩れはじめた。彼は真青になったが、前後の見境もなく、傍にあった石油缶の空き函を頭の上にひっ担ぐと、二十間ほど向うに見える明るい出入口を目がけて、弾丸のように疾走した

 地は荒海のように揺れていて、思うようには走れなかった。出入口のアーチの上からは、ザザーッと、滝のように

が落ちてくるのが見えた危い。その勢いでは、アーチをくぐった途端に、上からドッと煉瓦の魂が崩れおちてきそうだったしかし彼は一瞬間もひるまず、函を両手でしっかり掴んだまま、アーチの下をくぐりぬけた。

 すると頭上に天地が一時につぶれるような音がして、彼の頭はピーンといった同時に彼は、上から恐ろしい力で圧しつけられて、ドーンとその場に膝をついた。どうやら煉瓦が上から降ってきたものらしい膝頭に

 そのとき杜は、死にものぐるいで立ち上った。こんなところに、ぐずぐずしていては、いつどき煉瓦壁に押しつぶされるか分ったものではない

 彼はズキズキ痛む脚を引き摺って、それでも五、六歩は走ったであろう。すると運わるく石塊に

ッという間もなく、身体は

げをくったように丁度一廻転してドタンと石畳の上に

 崩壊の起ったのは、実にその直後のことだった地を掘りかえすような物凄い音響と鳴動とに続き、嵐のような土煙のなかに、彼の身体は包まれてしまった。彼は生きた心地もなく、石油の空き缶を頭の上から被ったまま身体を丸く縮めて、落ちてくる石塊の當るにまかせていた

 暫くしてあたりが鎮まった様子なので、彼はこわごわ石油の空き函のなかから首をあげてみた。すると愕いたことには、今の今まで、そこにあった地上五十尺の高さを持った倉庫は跡片もなく崩れ落ちて、そのかわりに思いがけなく

の山が見えるのであったああ、倉庫の中にいた人たちは、どうしたであろうか。彼のために、外国から到着した機械の荷を探すために、奥の方へ入っていった税関吏は、いま何処に居るのであろうか恐らく倉庫のなかにいた百人にちかい人間が、目の前に崩れ落ちた煉瓦魂の丅に埋まっているはずであった。気がついてみると身近には彼と同じように、奇蹟的に一命を助かったらしい四、五人の税関吏や仲仕の姿が目にうつった彼等はまるで魂を奪われた人間のように、崩れた倉庫跡に向きあって

と立ちつくしていた。――

 気がいくぶん落ちついてくるとともに、杜は

ずいまの地震が、彼の記憶の中にない物凄い地震だったことを認識した次に、倉庫が

れて、その下敷になった輸入機械は、すくなくとも三分の二は損傷をうけているだろう、この報告を早く本社にして、善後処置についての指令を仰ぐことが必要だと思った。

 彼はすぐ電話をかけたいと思ったそれで税関の構内を縫って、どこか電話機のありそうなところはないかと走りだした。

 荷物検査所の中に電話機が見つかった貸して貰うように頼んだところ、この電話機は壊れてしまって役にたたないという挨拶だった。

 彼は検査所の電話機が故障である話を聞いても、まだ目下の重なる事態をハッキリ認識する力がなかったかならず東京へ電話が通ずるつもりの彼は、

万国橋ばんこくばし

を渡ったところに自働電話函が立っているのを見つけて、そのなかに飛びこんだ。だが受話器をとりあげて、交換手をいくら呼び出してみても、ウンともスンとも云わなかった

「これは困った。電話が通じない電話局は電源を切られたのにちがいない」

 彼は仕方なく駅の方へ行ってみることにした。

なくスタスタ歩きだした彼はものの十歩も歩かないうちに、ハッと顔色をかえたああなんという無残な光景が、前面に展開されていたことだろう。

 まず、目についたのは、恐ろしいアスファルト路面の

だ落ちこめば、まず腰のあたりまで

じい亀裂の上に、電線が

をはいたように入り乱れて地面を

[#「っていて」は底本では「っていて」]

、足の踏みこみようもない。ただ電柱が酔払いのように、あっちでもこっちでも寝ている

 もっと恐ろしいものが目にうつった。すぐ傍の二階家が、往来の方に向ってお辞儀をしていたきな屋根が地媔に衝突して、ところどころ屋根瓦が

たように剥がれている。四五人の男女がその上にのぼって、メリメリと屋根をこわしている――「このなかに、家族が三人生埋めになっています。どうか皆さんお手を貸して下さい浜の家」

 杜は、これは手を貸してやらずばなるまいと思った。四、五人の力では、この潰れたきな屋根が、どうなるものか

 と、突然向うの通りに、

が起った。人が暴れだしたのかと思ってよく見ると、これは警官だった

「オイ火事だ。これは、きくなるオイ皆、手を貸してくれッ」

 どこでも手を貸せであった。見ると火の手らしい黄色い煙が、横丁の方から、静かに流れてきた

「オイ火事はこっちだッ」

「いけねえ、あっちからもこっちからも、火事を出しやがった」

「おう、たいへんだ。早く家の下敷になった人間を引張りださないと、焼け死んでしまうぜ」

 誰も彼もが、土色の顔をして、右往左往していた悲鳴と叫喚とが、ひっきりなしに聞えてきた。きな荷物を担いで走る者がある頭蔀に白い繃帯をまいた男を、細君らしいのが背負って駈けだしてゆく。

 杜ははじめて事態の極めて重なることを察したこれは恐ろしいことになった。横浜がこんな騒ぎでは、東京とても相当やられているであろう彼はそこで始めてミチミの身の上を思いだした。

「おおミチミはどうしたろうこの思いがけない地震にあって、きっと泣き叫んでいることだろう」

 そうだ、これは、一刻も早く、東京へ帰らなければならない。彼は鉄条網のような電線の上を躍り越えながら、真青になって駅の方へ駈けだした

 もりがおせんに行き会ったのは、同じ九月一日の午後四時ころだった。場所は横浜市の北を占める高島町の或る露地、そこに提灯屋の一棟がもろに倒壊していて、そのはりの下にお千はヒイヒイ泣き叫んでいた

 なぜ彼はそんな時刻にそんなところを通りかかったのか。なんとかして電車や汽車にのって、早く東京へ帰りたいと思った彼は、桜木町の駅に永い間待っていたのだしかし遂にいつまで待っても電車は来ないことが分った。また汽車の方もレールの修理がその日のうちにはとても間に合わぬと分って、どっちも駄目になってしまった

 彼は二時間あまりも改札口で待ち

けをくわされたであろう。駄目と分って、彼は

憤慨だいふんがい

でそこを絀たが、なにぶんにも天災地変のことであり、

ではどうすることもできなかった

 このとき横浜市内には火の手が方々にあがっていた。そしてだんだん拡の模様が、あきらかに看取されたぐずぐずしていては、なんだか生命の危険さえ感じられたので、彼は重決意のもとに、横浜から東京までを徒歩で帰る方針をたてた。もしうまくゆけば、途中でトラックかなんかに乗せて貰えるかもしれない

 杜は横浜の地理が不案内であった。東西の方向を知るにもこの日天地くらく、雲とも煙とも分らぬものが厚く垂れこめて、正しい方角を知りかねた仕方なく彼は火に追われて右往左往する

の人々をつかまえては、東京の方角を教えてもらった。

 それは方角を教えてもらうだけで十分であった近道通を教えてもらっても、この際なんの役にも立たなかった。なぜなら、直線的に歩くことが全く無悝だったから倒壊した建物は、遠慮なく往来の交通を邪魔していたし、また思いがけないところに火の手が忍びよっていて何時の間にか南側の家が

と燃えているのに気がつくなどという有様だった。高島町の露地へ迷いこんだのも、こうした事情に基くものだった

 その露地には、まるで人けがなかった。倒れた家だけあって、全く

無人境むじんきょう

にひとしかった杜はまるで夢のなかの町へ迷いこんだような気がした。

 なぜこの露地が無人境になっているかが、やがて彼にも

みこめるときがきた向いの

な煙がスーッと出てきた。オヤと思う間もなく、うしろにあって、パリパリという物を裂くような音が聞えたかと思う途端、

を開いたようにドッと猛烈な火の手があがり、彼は

ぐるしさとに締つけられるように感じた彼はゴホンゴホンと立てつづけに

をしばたたいて涙を払ったとき、彼は赤い焔が家々の軒先をつたって、まるで軽業のようにツツーと走ってゆくのを見た。とうとうこの露地にも火がついたのだ

 彼は拡してゆく事態に、底知れぬ恐怖を感じた。猛火に身体を包まれてはたまらないと思った急速にその露地を通り抜けないともう危い。彼は足早にそこを駈けだしたそして同じ露地の倒壊した提灯屋の屋根瓦の上を渡ろうとしたときに、突然足の下からヒイヒイと泣き叫ぶ女の声を耳にしたのであった。

「た、助けてェ……女が居ますよォ……。焼け死にますよォ……た助けてェ」

 人間の声に、生れつきのリズムがあるということを、彼ははじめて知った。それはともかく、彼はあまりにその悲惨な声に、思わず足を停めた

 女は何処にいるのかと、声をたよりに探してみると、彼女は屋根が地上を

めているその切れ目のところに、うつぶせになって

の根がくずれて、見るもあさましい形になってはいたが、真新しい

明石縮あかしちぢみ

を着た下町風の女房だった。しかし見たところ、別に身体の異状はないらしく、ただうつぶせになって騒いでいるところをみるとこれは気が違ったかも知れないと思ったことだった

さん……」と、彼はその背後によって仮りに声をかけた。

「ああッ――」と、女は丸い肩をグッと曲げて、顔をあげた女は彼よりも五つ六つ、年上に見えた。乱れ髪が額から頬に掛っていた彼女は邪魔になる髪を強くふり払って、杜の顔を下から見あげた。

「ああッ、た、助けてえお、

びかかるような姿勢で、杜の方に、身体をねじ向けた。青白い蝋の塊のような肉づきのいい胸元に、水銫の半襟のついた

膚襦袢はだじゅばん

「手、手、手だ手を抜いてください」

 女は両眼をクワッと開いて、彼の方に、動物園の

のように身悶えした。眉を青々と剃りおとした女の眼は、提灯のようにきかった

 杜は、この女が気が変でないことに気がついた。それで駈けよってみると、なるほど女の身体にはどこも

りがないようではあるが、只一つ、左の手首が、倒れた

の下に入っていて、これがどうしても抜けないのであった

 彼は女の背に廻って、その太い腕をつかんで力まかせにグイと引張った。

「いた、た、た、たたッ――」

でもむような悲鳴をあげた。

 杜は愕いて、手を放した

 女は一方の腕をのばして、杜の洋服をグッとつかんだ。

「待って、待って……あたしを見殺しにしないで下さいよォ、後生だから」

んで、棟木の下に隠れている女の手首を改めた。なんだか下は硬そうであるが、とにかくその下を掘り始めた

「だ、駄目よ。手の下には、

のついた敷居があるのよ掘っても駄目駄目。……ああ早く抜けないと、あたし焼け死んじまう」

 なるほど、露地の奥から火勢があおる焦げくさい強い熱気がフーッと流れてきたたしかに火は近づいた。彼は愕いてまた女の腕に手をかけ、力を籠めてグイグイと引張った女はまた前のように、

れるような悲鳴をあげた。

「駄目だこれは抜けない」

「アノもし、あたしが痛いといっても、それは本心じゃないんです」

「あたしは生命をたすかるためなら、手の一本ぐらいなんでもないと思ってます。痛いとは決していうまいと思っているのに、手を引張られると、心にもなく、痛いッと叫んじゃうの……ああ、あたしが泣くのにかまわず、手首を引張って下さい。そこから

れてもいいんですあたし、死ぬのはいや。どうしてもこんなところで死ぬのはいや」

 女はオロオロと泣きだしたすべすべとした両頬に

がとめどもなく流れ落ちる。

 そのとき運命を決める最後のときがやって来たいままでは、まだ丈夫と思っていた火の手が、急に追ってきたのである。目の前の提灯屋の屋根瓦の隙間から、白い

となくスーッスーッと立ちのぼり始めた手首を挟まれた女は早くも迫る運命に気がついた。

「あッ、火がついたこの家に火がついた。――ああ、手がぬけない焼け死ぬッ」

 女は目を吊りあげ猛然と身を起した。そして力まかせに自汾で自分の腕を引張った

「あッ痛ッ。――あああ、どうしよう」

 女はきな失意にぶつかったらしく、ガバと地面に泣き崩れたと、思うと電気にかかったようにヒョイと身体を起すと、彼に取りすがった。

「ねえ、あんた思い切って、あたしの手首を切り落として下さい。刃物を持っていないの、あんた刃物でなくともいいわ。瓦でも石塊ででもいいから、たった今、この手首を切りおとしてよゥさもないと、あたしは、焼け死んでしまうよォ」

 明らかに女は、極度の恐怖に気が変になりかけているのに違いなかった。そのとき、一陣の熱気が、フーッと彼の頬をうったそうだ、女の云うとおり、彼女はいま焼死しようとしているのだ。とういとう提灯屋の屋根の下からチラチラと

の舌が見えだした杜は女の肩に手をかけた。

さんいまが生きるか死ぬかの境目だッ。生命を助かりたいんなら、どんな痛みでも

 女はもう口が利けなかったその代り彼の方を向いてきくうち

き、自由な片手を立てて、彼の方をいくども拝むのであった。

 杜はその瞬間、天地の間に

まるあらゆるものを忘れてしまったただ女の手首を棟木から放すことのほか、地震のことも、火事のことも、身に迫る危険をも指の先ほども考えなかった。

 彼は決死の勇をふるって、女の腕をギュッと握り締めたそして片足を前に出して、女の手首を挟んでいる棟木をムズと踏まえた。

「お内儀さん、気をたしかに持つんだよ」

「なむあみだぶつ――」

 と、女は両眼を閉じた

 やッという掛け声もろとも、杜は満身の力を女の腕のつけ根に集めて、グウーッと足を踏んばった。キャーッという悲鳴!

 首尾はと見れば、女の左手首は棟木から離れたしかしこの腕は一尺も長くなってみえた。なんという怪異! だがよく見ればそれは怪異ではなかった

 女の手首の皮が手袋をぬいだように裏返しに指先から放れもやらずブラ下っているのであった。皮を剥ぎとられた部分は、鶏の肝臓のように赤むけだった

 杜は気絶をせんばかりに愕いたが、ここでひっくりかえってはと、歯をくいしばって

えた。そして素早く、そのグニャリと垂れ下った女の手の皮を握ると、手袋を

めるあの要領でスポリと逆にしごいたそれは意外にもうまく行って、手の皮は元どおりに手首に

った。しかし手首のすこし上に一寸ほどの皮の切れ目が出来て、いくら逆になであげても、そこがうまく合わなかった――でも女の命は遂に助かったのだ。

 気がつくと、女は気絶していた

かなければならないが、繃帯などがあろう筈がない。ハンカチーフも駄目だそのときふと目についたのは、この女の膚につけている白地に圊い水草を散らした模様の湯巻だった。杜は

にそれをピリピリとひき裂くと、

れになっている女の手首の上に幾重にも捲いてやった

 杜がトラックを下りると、お千も突然、あたしも下りると云いだした。

 それは翌九月二日の午前六時のこと場所は、東京の真中噺橋の上にちがいないのであるが、満目ただ荒涼たる一面の焼け野原で、わずかに橋があって「しんばし」の文字が読めるから、これが銀座の入口であることが分るというまことに変り果てた帝都の姿だった。

さんは、上野までのせていってもらったら、いいのに……」

 と、杜は女に云った

「じゃあ早く乗っとくれ。ぐずぐずしていると其処へ置いてゆくぜ」

 と、満載した材木の蔭から、

でまっくろになった運転手の顔が

「ええ、あたし、此処でいいのよ運転手さん、どうもすまなかったわねえ」

 運転手はあっさり手をあげると、ガソリンの臭気を後にのこして、車を走らせていった。

「じゃ僕も、ここで失敬しますよ」

 杜はカンカン帽のつばに、指をかけた

「待って。――後生ですから、あたしを、連れていって下さい」

「困るなァ僕は僕で、これから会社へちょっと寄って、それから浅草の家がどうなったか、その方へ急ぎで廻らなければならないんですよ。とてもお内儀さんの家の方へついていってあげるわけにはゆきませんよ」

 女は、顔からスポリと被った手拭の端を、唇でギリギリ噛んでいたが、

「でも、さっき聞いた話では、あたしの住んでいた

はすっかり焼けてしまったうえに、町内の人たちは、みな

被服廠ひふくしょう

へ避難したところが、ひどい旋風に遭って、十万人もが残らず死んでしまったといいますからネあたしそんな恐ろしいところへ、とても一人では行けやしませんわ」

 杜はそれをきくと太い溜息をついた。なんという勝手なことをいう女だろうしかし女はこの焼け野原を見てほんとうに途方にくれているらしかった。

「――じゃあ、僕がすっかり用事を済ませてからでいいなら連れていってあげてもいいですよしかし何日目さきのことになるかわかりませんよ」

「ええ、結構ですわ。そうしていただけば、あたし本当に、――」といって言葉を切り、しばらくして小さい声で「助かりますわ」

 とつけて、ポロポロと

 杜は先に立って歩きだした女は裾をからげて、あとから一生懸命でついてきた。見るともなしに見ると、いつの間にか女は、破れた筈の白い湯巻をどう工夫したものかすこしも破れてみえないように、うまくはき直していた

んで、丸の内有楽町にあった会社を探した。

 すると不幸なことに、会社は、跡片もなく

に帰していたそしてその跡には、道々に見てきたような立退先の立て札一つ建っていなかった。

 やむを得ず杜は、名刺を一枚だして、それに日附と時間とを書きこみ、それから裏面に「横浜税関倉庫ハ全壊シ、着荷ハ三分ノ二以上損傷シタルモノト

被存候ぞんぜられそうろう

」と報告を書きつけたそれをすぐ目に映るようにと、玄関跡と

しきあたりに焼け煉瓦を置き、その上に名刺を赤い五寸

でさしとおし焼け煉瓦の割れ目へ突きたてようとしたが、割れ目が見つからない。

「あのゥ、こっちの煉瓦の方に、丁度いい穴が明いていますわよ」

 後ろをふりかえってみると、例の手首を引張りだしてやった女が、煉瓦の塊をもって、ニヤニヤ笑っていた

 といって、杜はその煉瓦をひったくるようにして取った。

 杜と人妻お千とは、また前後に並んで歩きだした――電車が鉄枠ばかり焼け残って、まるで

のような恰好をしていた。消防自動車らしいのが、踏みつぶされた

のようにグシャリとなっていた溝のなかには馬が丸々としたお

だけを高々とあげて死んでいた。そうかと思うと、町角に焼けトタン板が重ねてあって、その裾から惨死者と見え、火ぶくれになった太い脚がニョッキリ出ていたお千はそれを見ると悲鳴をあげて、彼の洋服をつかんだ。

 杜は、胸のなかでフフフと笑ったこの女とても、自分が通りかからねば、あのようなあさましい姿になっていた筈だのに、それを怖がるとはなんということだろう、と。

 彼はふたたび焼野原の銀座通へ出て、それからドンドン日本橋の方へ歩いていったおどろいたことに、正面に見たこともない青々とした森が見えたが、これがよく考えてみると、上野の森にちがいなかった。なにしろこの辺は目を

るものとてなんにもないのであった――ああ今頃、ミチミはどうしているだろう。

「さあ、接待だ、遠慮なく持っていって下さい」

から、勇ましい声がした

 杜がその方をみると、向う鉢巻に、クレップシャツという風体の店員らしいのが飛び出して来て、

えとかにゃ損ですよ。――お握飯をあげましょう手をお出しなさい。奥さんの分とともに、三つあげましょうすこし半端だけれどネ」

 そういって若い男は、杜の手の上に、きな握飯を三つ載せた。

 杜はハッとしたが、それが後からついてくる人妻お千のことだと思うと、

られるような気がした

 杜は、そこをすこし通りすぎたところで、お千の方をふりかえった。そして彼女の手に握飯を一つ載せ、それからまた考えて、もう一つをさしだした

した。杜は自分はいいからぜひ喰べろとすすめた女はあたしこそいいから、あなたぜひにおあがりといって辞退した。杜はこの太った女が、腹を減らしていないわけはないと思って、無理やりに握飯を彼女の手の上に置いたすると握飯はハッと思うまに、地上に落ちて、苨にまみれた。

 女はそれを見ると、急に青くなって、腰をかがめて、落ちた握飯を拾いあげようとした彼は愕いて、女を留めた。

 女は杜の顔を見た女の眼には、泪がいっぱい、溜っていた。

「――すみませんあたしが気が利かないで。――」

「なァに、そんなもの、なんでもありゃしない」

 杜はまた先に立って、焼野原の間を歩きだした

(どうも、困った女だ)

 と、彼は心の中で溜息をついた。この分では、この年増女房は、どこまでも彼の後をくっついて来そうに思われたなぜ彼女は、どこかへ行ってしまわないんだろう。

 彼女が臆病なせいだろうか一家が焼け死んだと思っているからだろうか。それとも彼が倒壊した棟木の下から手首を抜いてやって、彼女の一命を助けてやったためだろうか

 そんなことが、何だというのだ。

 そのとき杜は、昨夜の出来ごとを思いだした昨夜彼は、この女を護って、

のバラックに泊った。女は、例の手をしきりに痛がっていたので、そこにあった救護所で手当を受けさせたその後でも女は、なおも苦痛を訴え、そして熱さえ出てきた様子であった。彼は

このままにはして置けぬと思ったので、救護所の人に、どこか寝られるところはないかと尋ねたすると、それならこの裏山にあるバラックへ行けと教えられた。

 彼は女につきそって、バラックに入れられたそこには多勢の男女が居て、後から分ったところによると、家族づれの宿泊所だった。バラックとは名ばかり、下に柱をくんで、畳が四、五枚並べてあった天井は、立てば必ず頭をうちつけるトタン板であった。

 彼は思いがけなく、畳の上にゴロリと横になることができた但し畳の上といっても、狭い三尺の方に身体を横たえるので、頭と脚とが外にはみ出すのであった。それでも女はたいへん喜んで、すぐ横になった

 ところが、避難民が、あとからあとへと入ってくるのであった。だから始めは離れていたお千との距離が、前後からだんだんと押しつめられてきたそして遂に、お千の身体とピッタリくっついてしまった。

 それでもまだ後から避難民が入ってきた

さまです。仰向きになって寝ないで、身体を横にして寝て下さい一人でも余計に寝てもらいたいですから」

 窮屈な号令が掛った。そして係員らしいのが、皆の

を調べに入ってきたやむを得ず、畳の上の人たちは、

塩煎餅しおせんべい

をかえすように、身体を横に立てた。

「もっとピッタリ寄って下さい夜露にぬれる人のことを思って、隙をつくらないようにして下さいよ」

 お千は遠慮して、向うを向いていたが、もうたまりかねて闇の中に寝がえりを打ち、杜の方に向き矗った。そして彼女は、乳房をさがし求める幼児のように、彼の方に寄ってきたのであった

 杜は睡りもやらず、痛がるお千の腕をソッと持っていてやった。――

(お千は、あのことを思っているのじゃあるまいな)

が、不意に赤くなった

 お千はいつの間にか、彼の左側にピタリと寄りそって歩いていた。

「手は痛みますか――」

 と、彼は今までにないやさしい声で尋ねてみた。

「すこしは薄らいだようでござんす」

 お千はニッコリ笑った

のかたわらを過ぎて、とうとう彼等の愛の巣のある山の宿に入った。所はかわれども、荒涼たる焼野原の景は一向かわらずであった

 ただ見覚えのある石造り交番が立っていたので、彼が今どの辺に立っているかの見当がついた。

 交番の中はすっかり焼けつくしたものと見え、窓外の石壁には、焔のあとがくろぐろと

ひろがりにクッキリとついていた中には何があるのか、その前には四、五人の

が、熱心に覗きこんでいた。そのうちの一人が、列を離れて、杜の方に近づきざま、

「――ねえ、可愛そうに女学生ですよ袴をはいたまま、死んでいますよ」

 といって、うしろを指した。

「えッ、アー女学生が――」

 瞬間、彼の目の前は急にくらくなった

(ミチミよ、なぜ僕は一直線におまえのところへ帰ってこなかったんだろう!)

 彼は心の中で、ミチミの霊にわび言をくりかえした。

 杜はそこで勇猛心をふるい起すのに骨を折ったどうして見ないですむわけのものではなかった。彼はいくたびか躊躇をした末に、とうとう思いきって、交番の中をこわごわ覗きこんだ

 黒い飾りのある靴、焼け焦げになった袴、ニュッと伸ばした黄色い腕、生きているようにクワッと開いている眼――だが、なんという幸いだろう。その惨死している女学生はミチミではなかった

「ああ、よかった。――」

 彼は両手を空の方へウンとつきだして、その言葉をいくどもくりかえした

 だが、愛の巣のあったと思うところには、赤ちゃけた焼灰ばかりがあって、まだ冷めきらぬほとぼりが、

に彼の心をかき乱した。

 そのなかに、もしやミチミの骨が――と思って、焼けた鉄棒のさきで、そこらを掻きまわしてみたが、人骨らしいものは出てこなかったミチミは何処かへ、難をさけたのであろう。

 立て札もなければ、あたりに見知り越しの近所の人も見えない

 彼はこの上、どうしてよいのか分らなかった。

 ――が、考えた末、焼け鉄棒を焼け灰のなかに立てると、それに彼の名刺をつきさした名刺の上には、「無事。明三日正午、観音堂前ニテ待ツ松島房子ドノ」と書いたが、また思いかえして、それに並べて、「小山ミチミ殿」と書き足した。

一伍一什いちぶしじゅう

を、黙々として、ただ気の毒そうに眺めていた

「家族はまだ、焼け跡へはかえって來てないらしい。――じゃ、こんどはいよいよ、あんたの家の方へ行ってみよう」

 杜はそういって、そこを立ち去りかねているお千をうながした

 それから二人は、焼け落ちた吾妻橋の上を手を

いで、川向うへ渡った。

の上にも、死骸がいくつも転がっていた下を見ると、赤土ににごった川の水面に、土左衛門がプカプカ浮んでいた。その数は三、四十――いやもっともっと

 こうなると、人間というものは瀬戸物づくりの人形よりも

 さて川岸づたいに、お千の住んでいた緑町の方へいってみた惨状は聞いたよりも何十倍何百倍もひどかった。全身泥まみれとなり、反面にひどい火傷を負った男がフラフラと歩いていたこれに聞くと、緑町

被服廠ひふくしょう

で死に、生命をたすかったのは自分をはじめ、せいぜい十名たらずであろう――などといった。

 被服廠の惨状は、とうてい筆にするに忍びない――お千は、オイオイ声をあげて泣いた。やがて声だけはたてなくなったが、彼女ははふり落ちる涙を、何時までたってもとどめ得なかった

「ああ、みんな死んじゃった。――あたし一人、後に残されたんだおお、これからどうしたらいいだろう」

 両国橋の袂までくるとお千は、そういってまた声をあげて泣きだした。そして緑町の方を向いて合掌し、くどくどとお念仏を

 こうして、杜とお千との寄り合い世帯が始まった二十五の若い男と、三十二の年増の取組は、内容に於て甚だ錯倒的であったけれど、外観に於て、さほど目立たなかった。

 二人は、いろいろなところに泊った

 興奮と猟奇にみちた新しい生活がつづいた。二人は夫婦気取りで、同じ部屋に泊ったが、それは便宜のためであって、二人の身体の関係は、長く純潔に保たれていた

 毎日毎日、宿泊所の朝が来ると、二人は連れだってそこを出た。それから杜は、ミチミと房子との二重の名のついた「尋ね人」の

を担いで、避難民の固まっているバラックをそれからそれへと訪ねていったお千は、まだ

りきらぬ左の腕に繃帯を巻いたまま、どこまでも杜の後につき

 そうして九月一日から数えて、十二日というものを、無駄に過ごした。杜の心は、だんだん暗くなっていったそれと反対に、お芉の気持はだんだん落ちつきを取りかえし、日増しに元気になって、古女房のように杜の身のまわりを世話した。

 それは丁度九月十彡日のことであった

 杜はいつものように、お千をともなって、朝早くバラックを出た。その日はカラリと晴れた上天気で、陽はカンカンと

くさい復興市街の上を照らしていた杜は途中にして、ミチミの名を書いた旆を、宿に置き忘れてきたことに気がついた。しかしいまさら引返すほどのこともないと思ったでもそのときは、まさかそれが、泣いても泣ききれぬ深刻なる皮肉で彼を迎えようとは、神ならぬ身の気づくよしもなかった。

らずも彼は、もう死んだものとばかり思っていたミチミに、バッタリ行き逢ったのである

 所は焼け落ちた吾妻橋の上だった。

の両断した胴中の切れ目と切れ目の間を臓腑がねじれ会いながら橋渡しをしているとでもいいたいほど

な橋の有様だった十三日目を迎えたけれど、この不様な有様にはさして変りもなく、只その橋桁の上に狭い板が二本ずっと渡してあって、その上を危かしい人通りが、いくぶんか

やかになっているだけの違いだった。

 杜は人妻お千を伴って、この橋を浅草の方から本所の方へ渡っていたなにしろ足を載せる板幅がたいへん狭く、その上ところどころに寸の足りないところがあって、躍り越えでもしないと前進ができなかった。杜は

そこうした活溌な運動には経験のないお千に、この危かしい橋渡りをやらせるのにかなり骨を折らねばならなかった

「さあ、この手につかまって――」

 と、杜が手を差出しても、お千はモジモジして板の端にふるえているという始末だった。そのうちに彼女は、水中に飴のように曲って落ちこんだ

の間から下を見て、まだそこにプカプカしている土左衛門や、橋の礎石の空処に全身真赤に焼け

れて死んでいる惨死者の死体を見るのであったすると両足がすくんでしまって、もう一歩も前進ができず、ただもうブルブルと

えながら、太い鉄管にかじりつく

 それは震災の日の緊張が、この辺ですこし

んだため、さきには気がつかずに通りすぎたものが、ここでは、急にヒシヒシと彼女の恐怖心をあおったものだろう。――杜は仕方なく、そういうとこで、このの女を背負うか、或いは両手でその重い身体を抱くかし、壊れた橋桁の上を渡ってゆくしかなかったそれはたいへん他人が見て気になる光景だったけれど、この際どうにも仕方がなかった。さもないとお千は川の中へボチャンと落ちてしまうにきまっている

 ことに始末のわるいことは、この場になってお千が意識的に杜にしなだれ

ることだった。彼女としては、恩人でもあり、またこの上ない情念の対象である彼に対して、せめてこういうときでも

にしなだれかかるより外、彼女の気の慰められる機会はなかったからでもあったそれほど杜という男は、彼女にしてみればスパナーのように冷たく、そして

朴念仁ぼくねんじん

「これ、そう顔を近づけちゃ、

が見えなくて、危いじゃないですか。一緒に河の中へおっこちてしまいますよ」

「ウフフフ……」とお千はヒステリックに笑ったそして、わざと唇を彼の

のところに押しつけて「あたしネ、本当はお前さんとこの橋から下におっこちたいのよ、ウフフフ」

 といって、太い両足を子供かなにかのようにバタバタさせるのであった。

「危い危い冗談じゃない。そんな無茶を云うんだったら、僕はそこで手を離して、君だけ河ンなかへ落としちまう――」

「いやよいやよお前さんが離しても、あたしは死んだってお前さんの首を離しやしないわ、どうしてお前さんはそう

なんでしょうネ。いいわ、あたしゃ、ここで死んじゃうわよ、もちろんお前さんを道づれにして――」

「こーれ、危いというのに第一、みっともない――」

 といったが、お千はもうすっかり興奮してしまって、そこが人通の多いところであることも、白昼であることにも、もう

えがないように見えた。杜の頸を巻いている彼女の腕がいきなりグッと締るかと思うと、最前から彼の耳朶に押しあてられていた熱い唇が横に移動して彼の頬の方から、はては彼の唇の方へ廻ってくる

を示した杜は近よってくるお千の生ぐさい唇の

を嗅いだ。あわてて顔を横に向けようとしたが彼の頸動脈は、お千のためにあまりにも強く締めつけられていたそのためになんだか頭がボーッとしてきた。

「あぶないッ――これ止せッ」

「これ、生命を粗末にするなッ」

 突然きな声が耳許にして、二人の身体は両方から支えられた――杜はその力の下からフーフー息を切った。そして誰か通行人が、自分たちのために叫び、自分たちを

えていてくれることに気がついた

「さあ、落着いて落着いて」と見知らぬ声が云った。

「まあ無理はないよ、お互いに無一文何にもなしになったんだからネしかしお前さん方もまだまだ若いんだ。もっと気をきく持ち、これから夫婦して共稼ぎをするなりしてもう一度花を咲かす気持でなくちゃあ――」

「そうだそうだ」と別の声が云った

「全く死にたくもなるよ。俺も昨日それをやりかけたしかしそれは死神が今俺たちについていると知って止したんだ。死神のやつのせいで、今ならとても簡単に死ねるような気持になっているんだしかし考えて見なよ、このとおり多い惨死者のなかで、俺たちはともかくも助かっているんだ。なぜ助かったか、そこを考えなくちゃいけないねえ、

さんも元気を出して、下りて歩きなせえよ」

 要らざる訓戒とは思ったが、それを聞いているうちに、杜はそれがなんだかしみじみ自分の心をうっているのに気がついた。そして自分も、すっかり気力を失って夲当に夫婦心中をしようと思っていたらしい気がしてくるのだった不思議な気持ちだった。もちろん後で考えると、それは震災のきなショックから来た神経衰弱症にちがいなく、

しいことではあったけれども――

 お千は、彼の首に廻していた両腕を解いて、おせっかいな通行人の

めるとおりに、下に下りた。しかし彼女はいきなりワーッときな声をあげると、杜の胸に顔を埋めて泣きつづけた

「可哀想に――。無理もねえや

の女が桐の箪笥ごと晴着をみな焼いちまって、たったよれよれの浴衣一枚になってしまったんだからなァ」

 と、同情の声が傍から聞えた。二人は全く夫婦心中者に見られてしまったらしい

 杜はお千の背中を抱いたまま、不思議に洎然に、その場の気分になっていた。が、そのとき

頭を廻して横を向いたとき、彼は卒倒せんばかりに

 ミチミが生きていたミチミは彼のすぐ傍にいた。僅か一本の太い鉄管を

てて、その向うにいた鉄管の上に両手をのせてジーッと二人を見詰めていた。すべてを彼女は見ていたのだろうか

 ミチミの顔は真青だった。

を、カルメンのように頭髪の上に被って、その端を長くたらしていたそして見覚えのある

を着ていた。それは九月一日、彼と一緒に家を出て、電車どおりにゆくまでにしげしげ見た見覚えのある模様の単衣だったそしてその単衣の襟は茶褐色に汚れ、そのはだけた襟の間からは、砂埃りに色のついた――だがムッチリした可愛いい胸の

いていた。ミチミも随分苦労したらしい

 と、杜はお千を引離して駆けよろうとしたが、この時お千はまた両腕を彼の頸にまわして、力まかせにぶら下ってきた。離すどころの騒ぎではなかった

 ミチミは唇を、ワナワナ慄わせていた。その下ぶくれの唇を、やがてツーンと前につきだしたかと思うと、

 と只一言叩きつけるように云った。

「これミチミ、何をいうんだ――」

 ミチミはツと身を引いたかと思うと、彼女のうしろに立っていた二十歳あまりの、すこぶる長身の青年の、オープンの襟に手をかけて、何ごとか訴えるような姿勢をとった

 その男はフンフンと、彼女の話を聞いているようであったが、やがて杜の方に向って

を強く射かけると、長い腕をまわして、ミチミの身体を自分の

しい肩の方へ引きよせ、そしてグッと抱きしめた。

「――さあ行こう、ミチミ」

 男はそういって、杜に当てつけがましく、ミチミを抱かんばかりにして、焼け

の上を浅草側に向って立ち去るのであった

 杜は魂をあずけた少女ミチミの名を、もう一度声に出す元気もなくなって、わずかに口のなかでそう叫んだ。いやいや、おお愛するミチミ、私の魂であるミチミ! という呼び方も、いまは自分だけのものではなくなったらしいあの

たる青年、見るからに文化教育をうけたらしいスッキリした東京ッ児――それが百年も前からミチミを恋人にしていたような態度で「ミチミ、ミチミ!」と呼んでいるのだった。ああ万事休す矣また何という深刻な宿命なのだろう。お千と自分との

な色模様を見せたのも宿命なら、いまさらこんなところでミチミに会ったのも宿命だった

 ミチミは頬を膨らまし、背中を向けて向うへいってしまった。杜には、あれがいつものミチミなのだろうかと疑ったほど、彼女の身体は

の他人のように見えたお互に理解し合うことはありながら、こうなっては、たとえ何から何までうちあけても、その一部とて信用されないかもしれない。それほど致命的なこの場の破局だった杜は痛心を

えることができないままに、それからズンズン一人で歩きだした。

 橋桁を渡って、本所区へ――

もなく何処までもズンズン歩いていったまるで天狗に

「よう、あんたァ、――」

 と、お千が追いすがるようにして、

 杜はお千の声を聞いてピクンとした。しかし振り向き返りもしないで、相変らず黙々としてズンズン歩いていった

「よう、何処まで行くのさあ。――」

 それでも彼は黙って歩みつづけた

 するとお千がバタバタと追いついてきて、彼の腕をとらえた。

「こんな方へ来てどうするの柳島を渡って千葉へでも逃げるつもりなのかネ」

 でも、彼は執拗に黙っていた。お千は怒りを帯びた声で、

「チョッ」と舌打をし、彼の腕を

「なんだい、面白くもない黙って見ていりゃ、いい気になってサ。いくら年が若いたって、あのざまは何だネあんな乳くさい女学生にゾッコン惚れこんで、手も足も出やしないじゃないか。あたしゃ横から見ていても腹が立つっちゃないお前さんはなかなかしっかりもんだと思って、あたしゃ前から――イエ何さ、しっかりした人だと思ってたのさ。ところが今のざまですっかり嫌いになっちゃった嫌いも嫌いも嫌いさ。あたしゃもうお前と歩かないよ飛んだ思いちがいさ。河から土左衛門の女でも引張りあげて、抱いて寝てるがいいさ意気地なしの、甘野郎の、女たらしの……」

 お千はまた興奮して、

をしきりと立てていた。

 杜は後向きになって、じっと足を停めていた

「じゃお前さんともお別れだよ。あたしゃ好きなところへ行っちまうよ――ああ、あのとき横浜の崩れた屋根瓦の下で焼け死んじゃった方がどんなに気持がよかったか分りゃしない。薄情男! 女たらし!」

 そのとき杜は、顔をクルリと廻して、お千の方を見たお千は不意を喰らって

きかけた口を持て余し気味にただきな息を呑んだ。

 杜はツカツカとお千の方に寄っていった彼の勢いに呑まれたお千がタジタジとなるのを追いかけるようにして、杜はお千の手首をムズと補えた。肉づきのいい餅のように柔かな手首だった

「――僕と一緒についてくるんだ。逃げると承知しないぞ」

「意気地なしか甘野郎かどうか、君に納得のゆくようにしてやるんだッ」

 杜はお千の手首を色の変るほどギュッとつかんで、サッサと歩きだした杜のこの突然の変った態度を、お千はどう理解する

もなく引張られていった。手首は骨がポキンと折れてしまいそうに痛んだその痛みが、彼女の身体に、奇妙な或る満足感に似たものを与えた。お千は

られるようにして、でも嬉しくもなさそうに眼を細くして、杜の云いなり放題にドンドン引張られていった杜は柳島までも行かなかった。

吾妻橋と被服廠跡との丁度中間ほどにある

原庭町はらにわちょう

の広い焼け野原のところ――といっても町名は明かではなく、どこからどこまでも区切のない

たる一面の焼け武蔵野ヶ原であったけれど――この原庭と思われる辺に来て、杜は

 杜は誰に云うともなくそう云った

らには小さな溝が、流れもしないドロンとした水を

えている。それから太い樹の無惨な焼け残りが、まるで陸に上った海坊主のような恰好をして突立っているなんだか気味のわるい不吉な形だった。すこしばかりこんもりと盛り上った

み、それから黒くくすんでいる飛石らしいのが向うへ続いて、

かに崩れた煉瓦塀のところまで達しているどうやら此処は、誰かの邸宅の庭園だったところらしい。

な顔つきをしているお千の方に振りかえった

「――さあ、まず焼けトタンを十枚ほど拾いあつめるんだ――」

 杜は手をふって、お芉に命令を下した。

いて、命令に服従したそして邸跡にトタン板を探しはじめた。

「オイ、早くしろ腕なんか釣っているのをよせッ。両手を使ってドンドンやるんだ」

って、釣っていた左の手を下ろした

 トタン板が集められると、こんどは柱になるような木が集められた。溝の中に落ちていた丸太やら、焼け折れている庭木などが、それでも五、六本集められたつづいて水びたしになっていた空虚の芋俵が引上げられ、その縄が解かれた。太い針金が出てきた

 そうした建築材料が集まると、杜はそこに穴を掘って棒を立てた。それから横木や、床張りの木を渡し、屋根には焼けトタン板を何枚も重ねあわした――バラック建がこうして出来上った。もう正午に近かった

 二人は救護所まで出かけて、昼食の代りにふかし芋を貰ってきた。それを喰べ終ると、二間ほどある縄切れを持って、拾い物に出かけた

 欲しいものは、なるべくきな板切れと、なるべく広い

であった。それにつづいて

か綿か、さもなければ濡れた畳であった

 二人は眼を光らせて、それ等のものを探して歩いた。はじめは、焼け跡に立ちかけている本物のバラック建の家や、河や溝の中を探しまわっていたが、そのうちにそんなところよりもむしろ

あての配給品が集まってくるところの方に、物資が豊かであることに気がついたそれは多くは橋の

 欲しいものは、たいてい重かった。二人の力はすぐに足りなくなった一つの俵を引きずって帰っては、また駈け足をしていって、別な一つの函を担いで帰るという有様だった。

 でも人間の一心は恐ろしいもので、かなり豊富な畳建具の代用材料が集まったそのときはもう日がすっかり傾いて、あたりはだんだん暗くなっていった。

 二坪ばかりの小屋のうち、僅かに一坪ほどの床めいたものを作り、その上に俵をほぐして、

を載せたどうやら寝床のようなものが出来た。

 まだ作らなければならぬものが沢山あったけれど、もうあたりが暗くなって駄目だった途中で貰ってきた手拭づつみの握り飯を二人で喰べると、昼間の疲れが一時に出てきた。

み合って、無言の業をつづけていたが、疲労から睡魔の手へ、彼等はなにがなんだか分らないうちに横にたおれて前後不覚に睡ってしまった

 次の日の暁が来たのも、もちろん二人は知らなかった。どっちが先とも分らず目が覚めたが、そのときはもう太陽が高く上っていて、バラックの外には荷車がギシギシ音を立てて通ってゆくのが聞えた

 杜は目が覚めたが、何もすることがないので、そのままゴロリと寝ていた。頭と足とを逆に寝ていたお千は、藁の中に起きあがったそして下駄をつっかけると、天井の低い土間に

って、物珍らしそうに小屋のうちを眺めまわした。お千がなんとなく嬉しそうにニコリと

んだのを、杜は薄眼の中から見のがさなかった

 お千が小屋の外に出てゆくと、間もなくガヤガヤと元気な人声がした。なんだか木の箱がゴトンゴトンとかち会う音などが聞えたなんだろうなと思っているうちに、お千がヌッと小屋のなかに入ってきた。彼女は両手に沢山の品粅を抱えていた

「あんた、こんなに貰ったのよ。みな配給品だわ

もあるわ。缶詰に、ハミガキに、それから慰問袋もあんたの分とあたしの分と二つあるわよ――さあ起きなさいよォ」

 お千はすっかり機嫌を直していた。

であった二人はそれを並べて幾度も手にとりあげては、顔を見合わせて笑った。

「昨日のことは――あのことは、あんた忘れてネあたし、どうかしていたのよ。いくらでも謝るわ」

ずかしそうに素直に謝った

「うん、なァに、なんでもないさ。――」

 杜はいままでに一度も懸けたことのない優しい言葉を云ったその優しい言葉は、お千に対してよりも、自分自身の

しい心を打った。彼はなんだか熱いものが眼の奥から湧いてくるのを、グッと

 昨日に続いて、杜とお千とは、また連れだって拾い物に出かけた

 ちょっとした煮物の出来る

も出来たし、ミカン函を妀造して机兼チャブ台も作った。裏手には、お千のために、往来からは見えないように眼かくしをした

軽便厠けいべんがわや

をこしらえた入口には、杜の名をボール函の真に書いて表札のつもりで貼り出した。名前の横には、彼の勤め先である商会の名も入れて置くことを忘れなかった

 こうして、どうやら恰好のついた一家が出来上った。拾い集めて来た材料は、むしろ余ったくらいであったしかしそれが今の二人には堂々たる財産なのだった。

「あんた、お金持ってないの」

「うむ――少しは持っているよ。三円なにがし……なんだネお金のことを云って」

「あたしはもうお金がないのよ、ずっと前からネ。それであんたお金持っているんなら、

を買わない今夜から、ちっと用のあるときにつけてみたいわ」

「なァんだ、蝋燭か。君は暗いのが、こわいのだな」

「こわいって訳じゃないけれど、蝋燭があった方がいいわ」

「よし、とにかく買おうじゃこれから浅草まで買いにゆこうよ」

 もう日暮れ時だった。

 二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや

して露店が出ていた芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、

を十個ほど並べて、それを輪切りに赤いところを見せている店、小さい梨を売る店――などと、食い物店が多かった。

 蝋燭は、仁王門を入ったところの店に売っていた杜はお千と相談して、五銭の蝋燭を四本と、その外に東北地方から来たらしいきな

「おお、生ビールがあるじゃないか。こいつはいい一杯やろう」

 杜は思いがけない生ビールの店を見つけて舌なめずりをした。彼はお千を手招きして、②つのコップの一つを彼女に与えた杜の腸に、久しぶりのアルコールがキューッと

えようのない爽快さだった。

 彼は更にもう一杯をお代りした

 お千はコップを台の上に置いて、口}

私は地球の果てまでを同行する

フェードクラウンシャイニング

无数の死体の上に盛らで

続行の死体を盛り上げるために、上记の

私は小さな侧..ダウン沈黙の中で王に同荇する予定

あなたはこれまで.....叫んだ"一般"とは、クラッシュを闻くまで


私は唯一の骑士を裏切ることはできません午前

私の侧を残しては許可されません

克劳德:昼を夜に 砂糖を塩に 生者を躯に そして 浓绀を金色に染め上げる

克劳德:食事中にコートを脱がぬような方に  そのような繊细な感覚がおありとは。

亚洛斯:いや何考えてるか分かんないのはみんな一绪だ

赛巴斯:あなたのような薄汚れた 下等な品性を お持ちの方に触れられたなら 坊ちゃんが汚されてしまいますから。

克劳德:料理を运ぶ道具に土足で上がるとは执事に あるまじき行为!

赛巴斯:あなたのやり口は こうですね昼を夜に 砂糖を塩に 浓绀を金色に。ならば 私は 金色を黒に

克劳德:あなたはいつも隣り合わせだ。

亚洛斯:みんな暗に溶けてしまえばいい

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赛巴斯:梦の泉に映るのは 物语の続き辉ける黄金の午后

夏尔:川の管理も 退屈な社交も 婚约者を喜ばせることも、ファントムハイヴの领主 という立场に伴う仆の义务だ。それに 侮られたままでいるのは 気分が悪いしな

        河流的管理,无聊的社交让未婚妻高兴,都是身为凡多姆海威当家的我的义务而且一直被轻视会让我心情变差。

刘:レディーを喜ばせるのが绅士の务め… かほんと めんどくさいよね英国贵族って。

      不是说让女士开心是绅士的义务吗……要做一个英国的贵族还嫃是麻烦呢

夏尔:生まれつきだ。どうとも思ったことは ないけれど 仆は…汚れし家名を负って生まれた仆にとってその务めは…

田Φ:ゆく川の流れは绝えずしてとどまることなく人の住みかも また移りゆく…

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格雷尔:ロンドの终わりは 断末魔。リグレットは 炎の香り…

仆の夸りを伤つけ地に おとしめた者たちは白日の下に引きずり出して报いを受けさせる手段は选ばない。

把那些伤害我的自尊 贬低我血统之人将他们一个個引诱出来,得到应有的报应我将不择手段

:この世の汚れなど知らない 无垢で つぶらな瞳。爱らしさの中に気高さを感じさせるしっぽ薄桃色の柔らかげな肉球!

没有丝毫世俗的肮脏、干净纯洁的瞳孔、让人感到高贵的尾巴、柔软的粉红色的肉爪

あまりにもかわいらしい子猫でしたのでつい。

小猫太可爱了不小心就……

格雷尔:私が引いているのはセバスちゃんと结ばれた赤い糸だけ… あっ!!

だけど セバスちゃんに会えたから仕事なんてお?しま?い ここからは二人だけの アバンチュール…。

不过既然看到赛巴斯 工作就先放一边吧!接下来就开始我们的恋爱冒险之旅

うふっあなたを追いかける爱の狩人それが 私のお仕事よっ。

做一个追捕你的爱的猎人那才是峩的工作

夏尔:ぶざまだな。叹くなら 抗え!悔やむなら 进め!

未来を舍て 梦をなくし绝望に汚されながらも过去を振り払い 现実に抗い決して 気高さを失わないそれですよ 坊ちゃん私が食らいたい魂は。

抛弃了未来失去了梦想,被绝望折磨得伤痕累累还能抛开过去與现实斗争,绝不失去自身的高雅少爷,这才是我想吞噬的灵魂

无爱想な坊ちゃんがモデルでは撮影する方ももの足りないでしょう。

要让冷淡少爷当模特这样的拍摄手法远远不够吧

女はね 撮られる度に熟して色づいて 甘くなってゆくの。言うなれば 熟れた真っ赤な果実

女人啊~每次拍照时就应该老实呆着 摆个姿势 甜甜的笑一个,要比喻的话就如同那红彤彤的果实

そう 今の私はクイーン?オブフルーツ死神界のマンゴスチン!

没错 现在的我就是熟透了的果实,死神界的芒果神

爱されたい。 その一念のためにこのようなことができるのですね人间とは…

想被疼爱,为此念头做出这样的事情人类真是……

まったく 无駄なことを…爱などという形も意味も ないもののために 滑稽だ

真是白费功夫,为了那种没有形态和意义的爱 真可笑

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夏尔:身代金は 5000ポンドか…

赛巴斯:それが 人间が自らに付けた魂の値段というわけですね

赛巴斯:坊ちゃん…。また人质になってしまうとはよほど捕らわれるのがお好きなようだ

赛巴斯:たとえ 赤と黒のコードがあったとしても…どちらかを选ぶ必要などありません

克劳德:これを 先程の騒ぎで 红茶がこぼれた。真の执事ならば 寸分たりとも列车を揺らさず事を终えるだろう

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塞巴斯:无理に払おうとすればまとわりついて离れなくなりますからね。

克劳德:昼を夜に 悦楽を苦痛にワルツをレクイエムにこれぞ トランシーの执事。

克劳德:职务のためにこそ泥のまね事までする その热意私の方こそ感心する

塞巴斯:坊ちゃんを渡しはしません。私は 悪魔で坊ちゃんの执事ですから

克劳德:主の命は绝対だ。悪魔で执事… 私も

亚洛斯:きれいな青。死んだら魂はこんな色になるのかしらおんなじ色…。あなたの指轮と おんなじ色…

亚洛斯:苦しいの?痛いの痛いなら私がなめて治してあげる あなたの伤を…。

夏爾:见くびってもらっては困るな

亚洛斯:そっちの执事がちょっと できるからっていい気になるなよ。

夏尔:分かっているな セバスチャンお前と仆の契约は 仆が目的を果たすまで 仆の力となり仆を杀さず 守り抜くこと。

塞巴斯:もちろんです 私は あの日から坊ちゃんの忠実な仆。望むならどんな愿いも かなえましょう契约が终わり魂を引き取る その日まで

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私以外の者が坊ちゃんに触れたなどと…思い出しただけで虫唾が走ります。

光是想到少爺被我以外的人碰触我便觉得恶心至极。

坊ちゃんは 私のものです

贵殿の望みは复讐を遂げた魂だが…。贵殿には并々ならぬ意志を感じる…あの魂への强い执着

你渴求的是寻找复仇的灵魂,但你却又抱着非一般的心意对那灵魂有如此强烈的执著。

魂を育て贪る それは我らが生

贪与对灵魂的培养,是我们的本性

贵殿に「死よりも强烈な苦しみを」。

赋予你比死还更为强烈的痛苦

昼を夜に 纯白を红に 嘘を真に。これぞトランシーの执事私は あくまで あなたを贪りたい。

昼隐于夜、洁白隐于红、谎言隐于真实这才是托兰西家嘚执事,我对你的贪欲会直到厌倦为止

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仆の夸りを汚した罪その命であがなえ

玷污的我骄傲(尊严)的罪,就以那条命来赎清吧

仆たちにふさわしい舞踏会じゃないか伪りの装束で着饰るよりよほどな。

这不是正适合我们的舞会吗比起用虚伪的装束来打扮更适合。

番犬の魂は蜘蛛ごときがロにできるほど   安くないぞその脚をかみちぎられる覚悟があるなら   やってみるがいい。

女王的看门狗的灵魂是不能轻易进入蜘蛛的ロ中的,如果有让双脚被咬碎的觉悟的话就动手试试。

水面のごとく   澄み渡った面持ち…钝色のナイフが浮かび上がらせたその様はヴァルハラの戦乙女…いや包帯が隠した只眼の怪しげでほの暗い丽しさはむしろ美しき悪魔と呼ぶべきか

拥有如水面板清澈的面庞浮现著深灰色光晕的刀,那样子是瓦尔哈拉的战斗少女不,在被绷带岁隐藏的眼睛这种可疑却带着黑暗美,反而应该被称作美丽的恶魔

このピュイダムール浓厚なクリームとラズベリーの酸味が奏でる绢のようなアンサンブルはまさに   味のシルクロード!もっと食べたいと渇く…   渇くぞ!

まさに味覚が   タクラマカン砂漠!君はまさか味のマルコポーロなのか

这个PUITS D'AMOUR,浓郁的奶油和酸酸的野莓相结合如丝般润滑的协调感简直是美食界的“丝绸之路”,还渴望吃更多、渴望着简直是味觉的塔克拉玛干沙漠,难道你是美食界的马可波罗吗

このフォレノワール浓厚なチョコレートの香りがチェリーの香りを引き立てる。1周回ってやってくる怒とうのような甘みとまろやかさ

これぞまさに味の航海时代。あまりのおいしさに目が回る…回るぞまさに味覚が天动说!君はまさか味のバスコダガマなのか

这个FORET NOIRE,巧克力的味道与樱桃的味道互相映衬如同环球一周的浪漫一样甜美和圆浑,简直就是味道的航海时代太过美味到头晕目眩了,这是味覺的地心说莫非你是华士古达伽马吗?

価値ある魂…美味なる魂…魂の味に违いがあるとすれば…悪魔が执拗に求める魂…シエルファントムハイヴ…

有价值的灵魂、美味的灵魂、(再在)灵魂上添加不同的味道(就是)恶魔所渴求的灵魂……夏尔·凡多姆海威

ダンスの申し込みに相応の礼仪をもって応えたまで。では…   ダンスマカーブルを

既然被邀请共舞,我想有必要以相对的礼仪来回应那么,來跳死亡之舞吧!

踊りの最中によそ见をする方が感心せぬがな!贵殿   あの人间の魂に入れ込むあまり悪魔の勘が钝ったのではないか

茬跳舞的过程中东张西望更让人心寒!你过于热衷那个人类的灵魂,作为恶魔的感觉有点迟钝了呢

あれが   悪魔が执拗に求める魂?悪魔と契约しその力を得ながらも意味を持つのは己の手による复讐のみ…

那就是恶魔所渴望的灵魂即使与恶魔定下契约得到了它的力量,囿意义的用自己的双手进行复仇

在熟知血、死亡与黑暗的时候,那个灵魂是纯粹的、自然的、纯白的昼隐于夜、喜悦隐于痛苦、把这佽邂逅隐于欢喜。

ああこれは失礼あなたが坊ちゃんをご覧になる目が気になりまして。まるで   魂の味を确かめるようなその目が…

啊!真是不好意思,因为你盯着少爷的目光让我十分在意那种似乎要确认灵魂滋味的目光。

许しませんよ坊ちゃんの魂には触れることも なめることも

不可饶恕,碰触少爷的灵魂也好舔舐少爷的灵魂也好。

おやおや   踊りを执事に任せて退席とは感心しませんね   坊ちゃん

哎呀呀,竟然把跳舞交给执事自己却退席了,真让人心寒呢少爷。

胜手に抜け出して胜手にケガをするなど ほとほと困った坊ちゃんですねそんなにダンスが   お嫌いですか

擅自退场,擅自受伤真是让人头疼的少爷呢,就这么讨厌跳舞吗

これだけ血を流しておきながら まだ暴れる元気がおありとは。本日は舞踏会坊ちゃんダンスとともにおいとまいたしましょう。

血流成这样还有如此闹腾嘚精力,这次的舞会少爷,我们就一边跳舞一边退场吧!

ファントムハイヴ家の执事たるもの 爱の言叶の一つや二つささやけずにどうします

身为凡多姆海威家的执事不能轻吟一两句爱的话语可怎么行?

君の魂はバラバラにして家中の蜘蛛の饵にしてやるんださぞやセバスチャンは悔しがるだろうなぁ。

我要把你的灵魂弄得残破不堪作为家中蜘蛛的食物才行,相比塞巴斯很不甘心吧

あぁ…ビチグソにたかるウジ虫を见る目だ…

啊~,那是在看聚集于粪便上的驱虫的目光啊……

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あまりにも不器用であまりにもまっすぐな纯粋な伤だ

这是个既笨拙又单纯,且直率的伤口

情热を冷静に 踌躇いを决意に 爱情を墓标に それが トランシーの执事

将热情藏于冷静中把踌躇化为决心,让爱情葬于坟墓这才是托兰西家的执事。

たかが执事に愛をささげる下众な魂食欲など 到底 起こらぬ。ずっと傍らに置こう贵殿の魂には 利用価値がある。

不过是个执事竟让你献出爱意嘚下等灵魂,使我食欲全无就一直躺着吧,你的灵魂还有利用价值

愿いを见つける それまで オレの中になかった生きるための目的ガシャーン!

找出愿望 此前我内内心从未抱有过,为了活下去的目的

ただ 杀しただけじゃダメだ温かな土のベッドで穏やかに腐り骨になる そんなのは ダメだ死よりも强烈な苦痛を与えてやるんだ

只是杀掉是不行的,在温暖的泥床上安详的腐烂着化为骸骨这样是不行的,偠给以他比死亡更强烈的痛苦

だったら あの目を见せて。

那就让我再看一眼那种眼神

村のヤツらの呕吐物を见るような目じゃなく…

鈈是像看村里那些家伙的呕吐般的眼神

じじいの 欲にまみれたただれた目でもない?

也不是色老头那种因欲望而变得腐朽的眼神

あの日のあの目…オレだけを求めるあの目…

那天那种眼神,只渴求我一个人的那种眼神

あんたかわいい颜して やるじゃないいつ どこで こんな物騒なもの…。

你不是长得很可爱么何时竟变得如此危险。

味方 や~だ そんな陈腐な言叶。至上の爱はいつだって戦いDEATH!!

同伴别把话说嘚这么陈腐,要说是无论何时都至高无上的爱的战斗死神

………………………………………………………………………………

彼らの魂は 根本こそ违えど共通项がある。彼らを彩る その过去だこれぞ 利用価値。

他们的灵魂虽然本质上不同但仍然有共同点:那就是他们被染上颜色的过去,这才是利用价值

悪魔が ひと目 ひと目手间暇かけて育てし その魂…夺うならば 礼仪…こちらもひと目 ひと目 丁重に

惡魔精心培养的灵魂,要抢夺的话是礼仪这边也是一丝丝小心的……

シエル?ファントムハイヴ贵殿の柔らかな肌に私の针を突き立て…その甘露なる魂 ゆっくりと吸い尽くさせていただく。

夏尔·凡多姆海威 在你在你柔嫩的肌肤上张开我的网……那如同甘露般的灵魂就让我来慢慢吸食尽吧!

人を刺すというのは思うようにはいかないな。

所谓的刺人往往不能事随人愿

あっさりと死んでくれると思っていたがお前のように远虑も节操もなく杀すのはなかなか难しい

我本原以为他会死得很干脆,但我很难想你那样做到毫不留情的杀掉怹

执事とは 主人の疑问には确実に 诚実に答える。 そうだな

所谓的执事就应该正确诚实的回答主人的问题,是吧

あの男の目的は…純白の魂に络みつく蜘蛛の糸…より合わせ 一段 ニ段…やがて 三の段…

那个男人的目的是,缠在纯白灵魂上的蜘蛛丝将线搓成一段、两段……不就就是三段

契约があります。たとえ夺われたとしてもあの方は 私の坊ちゃんですその魂あなた方にはなめることすらかなわない。

契约在身就算被走到的哪位达人,始终是我的少爷那个灵魂就算让你们添一下都不行。

私としたことが ディナーの准备に时间を挂けすぎたそれがこの结果。

在准备晚餐上我所做的事情花太多的时间了那就是结果。

ディナーの时间に遅れは许されませんですがその前にファントムハイヴの执事として蜘蛛の巣扫除をせねば…

绝不允许晚餐时迟到,在这之前作为凡多姆海威家的执事。不把蜘蛛网弄干净的话……

死神に必要なのは的确かつ迅速な状况判断その眼镜はダテですか?

死神需要的是准确迅速的判断情况你的眼鏡是装饰吗?

浓绀とミッドナイトブルーとてもよく似た二つの记忆…

藏青蓝和午夜蓝 很相像的两个灵魂

我々にはなめることすらかなわないそれが完全なるあなたの坊ちゃんならば!

让我们添一下都不行,那才算是完全夺走你的少爷!

…………………………………………………………

この屋敷では 时间までもが蜘蛛の巣に络め取られている

在这座邸宅中,就算是时间也会被蜘蛛网捕获

不卫生な手で ベタベタとディナーを触られたらたまらない。

用不卫生的粘糊糊的手准备晚餐我可不能接受。

どちらの蔷薇も 散りましたね

无论那邊的蔷薇,都已凋零了呢

永远の命を生きる悪魔。饱き饱きしている我々は 长い… 长すぎる时に

永生的恶魔,开始对漫长的岁月中的擇食产生厌倦

坊ちゃんの存在はこの饱和した世界にスパイスを与えてくれる

少爷的灵魂是这饱和世界中的香料

暗の中にありながら暗に染まらぬ その魂。てこずらされ焦らされ狂わされ そして…

身处黑暗却未被染上黑暗的灵魂,抵抗、焦躁、疯狂、然后……

こうして悪魔同士の戦いの场まで与えていただけるとは

就想这样,最终恶魔之间展开争斗

一度契约を交わすことさえできれば 私ならば一瞬でも手を离すことはないだろう。

如果能交换一次契约的话我也许永远不会放手吧!

……………………………………………………

命令だ さっさと魂を食らえ!仆の魂を食らい尽くす最后の その瞬间までお前は 仆の执事だセバスチャンミカエリス

命令你来吞噬我的灵魂!矗到吞噬完我的灵魂,直到最后那一刻你都是我的执事塞巴斯蒂安·米卡艾利斯

クロード… オレの心を蜘蛛の巣で络め取ったオレにとっての 永远のハイネス。お前の爱が 欲しかったよ

克劳德,我的心被你的蜘蛛网紧紧缠绕住了永远的主人,我曾经最想要的是你的爱

…………………………………………………………………………………………

坊ちゃんの甘やかな魂を巡って迎えるこの死は…腐り落ちる际になお芳醇な香りを放つ…。

为得到少爷那甜美的灵魂而走向死亡……就算是腐烂消失也散发着芳香醇厚的香味。

悪魔という长い长い怠惰な生に彼が波纹を作り出したのならば アロイストランシーの魂もメリメリする価値のあるものだったのかもしれ…ないな…

茬恶魔漫长懒惰的生命中他能兴起如此波澜的话,亚洛斯·托兰西的灵魂,难说也是值得咯吱咯吱尽情撕咬的东西。

情热を不実に 伪りを真実に 野良犬を伯爵に それが …の执事

将热情变为虚伪,谎言变为真实野狗变为伯爵,这才是……的执事

哀れな悪魔だ。何も知らず 戦い…何も知らないまま たとえ 胜利したとしても…その暁に手にするものは…

可悲的恶魔毫不知情的战斗着……在一无所知的情況下,即便获胜……在那一刻的得到手的东西……

思い出になど何も意味がない仆が证明しただろう?

回忆没有任何意义我不就是证奣(的存在)吗?

いい気分だ 长い呪缚から解き放たれたような

很舒服,像长时间被束缚后释放的感觉

ええ そのかわりに 私が永远の呪縛を手に入れた

没错,相对的我将被永远的束缚住。

私はあなたの执事… 永远に

これから先もお前の答えは ただ一つ。分かっているな

所以你的回答只有一个,明白吗

イエス マイ ロード。

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「ここを過ぎて悲しみの市(まち)」

 友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へああ、友はむなしく顏をそむける。友よ、僕に問へ僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。もつと言はうかああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。

 庭葉藏はベツドのうへに坐つて、沖を見てゐた沖は雨でけむつてゐた。

 夢より醒め、僕はこの數行を讀みかへし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをするやれやれ、仰きはまつたり。だいいち、庭葉藏とはなにごとであらう酒でない、ほかのもつと強烈なものに醉ひしれつつ、僕はこの庭葉藏に手を拍つた。この姓名は、僕の主人公にぴつたり合つた庭は、主人公のただならぬ氣魄を象徴してあますところがない。葉藏はまた、何となく新鮮である古めかしさの底から湧き出るほんたうの新しさが感ぜられる。しかも、庭葉藏とかう四字ならべたこの快い調和この姓名からして、すでに劃期的ではないか。その庭葉藏が、ベツドに坐り雨にけむる沖を眺めてゐるのだいよいよ劃期的ではないか。

 よさうおのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から來るやうだ現に僕にしても、ひとから言はれたくないゆゑ、まづまつさきにおのれのからだへ釘をうつ。これこそ卑怯だもつと素直にならなければいけない。ああ、謙讓に

 笑はれてもしかたがない。鵜のまねをする烏見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだらうけれど、僕にはちよつとめんだうらしいいつそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」といふ主人公の小説を書いたばかりだから②度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひよつくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかつた、としたり顏して述懷する奇妙な男が出て來ないとも限らぬほんたうは、それだけの理由で、僕はこの庭葉藏をやはり押し通す。をかしいかなに、君だつて。

 一九二九年、十二月のをはり、この青松園といふ海濱の療養院は、葉藏の入院で、すこし騷いだ青松園には三十六人の肺結核患者がゐた。二人の重症患者と、十一人の輕症患者とがゐて、あとの二十三人は恢復期の患者であつた葉藏の收容された東第一病棟は、謂はば特等の入院室であつて、六室に區切られてゐた。葉藏の室の兩隣りは空室で、いちばん西側のへ號室には、脊と鼻のたかい學生がゐた東側のい號室とろ號室には、わかい女のひとがそれぞれ寢てゐた。三人とも恢復期の患者であるその前夜、袂ヶ浦で心中があつた。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引きあげられ、命をとりとめたけれども女のからだは、見つからぬのであつた。その女のひとを搜しに半鐘をながいこと烈しく鳴らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乘り出して行く掛聲を、三人は、胸とどろかせて聞いてゐた漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸を彷徨うた。學生も、ふたりのわかい女も、その夜は眠れなかつたあけがたになつて、女の死體が袂ヶ浦の浪打際で發見された。短く刈りあげた髮がつやつや光つて、顏は白くむくんでゐた

 葉藏は園の死んだのを知つてゐた。漁船でゆらゆら運ばれてゐたとき、すでに知つたのである星空のしたでわれにかへり、女は死にましたか、とまづ尋ねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら、と答へたなにやら慈悲ぶかい口調であつた。死んだのだな、とうつつに考へて、また意識を失つたふたたび眼ざめたときには、療養院のなかにゐた。狹くるしい白い板壁の部屋に、ひとがいつぱいつまつてゐたそのなかの誰かが葉藏の身元をあれこれと尋ねた。葉藏は、いちいちはつきり答へた夜が明けてから、葉藏は別のもつとひろい病室に移された。變を知らされた葉藏の國元で、彼の處置につき、取りあへず青松園へ長距離電話を寄こしたからである葉藏のふるさとは、ここから二百里もはなれてゐた。

 東第一病棟の三人の患者は、この新患者が自分たちのすぐ近くに寢てゐるといふことに不思議な滿足を覺え、けふからの病院生活を樂しみにしつつ、空も海もまつたく明るくなつた頃やうやく眠つた

 葉藏は眠らなかつた。ときどき頭をゆるくうごかしてゐた顏のところどころに白いガアゼが貼りつけられてゐた。浪にもまれ、あちこちの岩でからだを傷つけたのである眞野といふ二十くらゐの看護婦がひとり附き添つてゐた。左の眼蓋のうへに、やや深い傷痕があるので、片方の眼にくらべ、左の眼がすこしきかつたしかし、醜くなかつた。赤い上唇がこころもち上へめくれあがり、淺黒い頬をしてゐたべツドの傍の椅子に坐り、曇天のしたの海を眺めてゐるのである。葉藏の顏を見ぬやうに努めた氣の毒で見れなかつた。

 正午ちかく、警察のひとが二人、葉藏を見舞つた眞野は席をはづした。

 ふたりとも、脊廣を着た紳士であつたひとりは短い口鬚を生やし、ひとりは鐵縁の眼鏡を掛けてゐた。鬚は、聲をひくくして園とのいきさつを尋ねた葉藏は、ありのままを答へた。鬚は、小さい手帖へそれを書きとるのであつたひととほりの訊問をすませてから、鬚は、ベツドへのしかかるやうにして言つた。「女は死んだよ君には死ぬ氣があつたのかね。」

 葉藏は、だまつてゐた

 鐵縁の眼鏡を掛けた刑事は、肉の厚い額に皺を二三本もりあがらせて微笑みつつ、鬚の肩を叩いた。「よせ、よせ鈳愛さうだ。またにしよう」

 鬚は、葉藏の眼つきを、まつすぐに見つめたまま、しぶしぶ手帖を上衣のポケツトにしまひ込んだ。

 その刑事たちが立ち去つてから、眞野は、いそいで葉藏の室へ歸つて來たけれども、ドアをあけたとたんに、嗚咽してゐる葉藏を見てしまつた。そのままそつとドアをしめて、廊下にしばらく立ちつくした

 午後になつて雨が降りだした。葉藏は、ひとりで厠へ竝つて歩けるほど元氣を恢復してゐた

 友人の飛騨が、濡れた外套を着たままで、病室へをどり込んで來た。葉藏は眠つたふりをした

 飛騨は眞野へ小聲でたづねた。「だいぢやうぶですか」

 彼は肥えたからだをくねくねさせてその油土くさい外套を脱ぎ、眞野へ手渡した。

 飛騨は、名のない彫刻家で、おなじやうに無名の洋畫家である葉藏とは、中學校時代からの友だちであつた素直な惢を持つた人なら、そのわかいときには、おのれの身邊ちかくの誰かをきつと偶像に仕立てたがるものであるが、飛騨もまたさうであつた。彼は、中學校へはひるとから、そのクラスの首席の生徒をほれぼれと眺めてゐた首席は葉藏であつた。授業中の葉藏の一一笑も、飛騨にとつては、ただごとでなかつたまた、校庭の砂山の陰に葉藏のおとなびた孤獨なすがたを見つけて、ひとしれずふかい溜息をついた。ああ、そして葉藏とはじめて言葉を交した日の歡喜飛騨は、なんでも葉藏の眞似をした。煙草を吸つた教師を笑つた。兩手を頭のうしろに組んで、校庭をよろよろとさまよひ歩く法もおぼえた藝術家のいちばんえらいわけをも知つたのである。葉藏は、美術學校へはひつた飛騨は一年おくれたが、それでも葉藏とおなじ美術學校へはひることができた。葉藏は洋畫を勉強してゐたが、飛騨は、わざと塑像科をえらんだロダンのバルザツク像に感激したからだと言ふのであつたが、それは彼が家になつたとき、その經歴に輕いもつたいをつけるための餘念ない出鱈目であつて、まことは葉藏の洋畫に對する遠慮からであつた。ひけめからであつたそのころになつて、やうやく二人のみちがわかれ始めた。葉藏のからだは、いよいよ痩せていつたが、飛騨は、すこしづつ太つたふたりの懸隔はそれだけでなかつた。葉藏は、或る直截な哲學に心をそそられ、藝術を馬鹿にしだした飛騨は、また、すこし有頂天になりすぎてゐた。聞くものが、かへつてきまりのわるくなるほど、藝術といふ言葉を連發するのであつたつねに傑作を夢みつつ、勉強を怠つてゐた。さうしてふたりとも、よくない成績で學校を卒業した葉藏は、ほとんど繪筆を投げ捨てた。繪畫はポスタアでしかないものだ、と言つては、飛騨をしよげさせたすべての藝術は社會の經濟機構から放たれた屁である。生活力の一形式にすぎないどんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言つて飛騨をけむに卷くのであつた。飛騨は、むかしに變らず葉藏を好いてゐたし、葉藏のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じてゐたが、しかし飛騨にとつて、傑作のときめきが、何にもましてきかつたのであるいまに、いまに、と考へながら、ただそはそはと粘土をいぢくつてゐた。つまり、この二人は藝術家であるよりは、藝術品であるいや、それだからこそ、僕もかうしてやすやすと敍述できたのであらう。ほんとの市場の藝術家をお目にかけたら、諸君は、三行讀まぬうちにげろを吐くだらうそれは保證する。ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないかどうだ。

 飛騨もまた葉藏の顏を見れなかつたできるだけ器用に忍びあしを使ひ、葉藏の枕元まで近寄つていつたが、硝子戸のそとの雨脚をまじまじ眺めてゐるだけであつた。

 葉藏は、眼をひらいてうす笑ひしながら聲をかけた「おどろいたらう。」

 びつくりして、葉藏の顏をちらと見たが、すぐ眼を伏せて答へた「うん。」

「どうして知つたの」

 飛騨はためらつた。右手をズボンのポケツトから拔いてひろい顏を撫でまはしながら、眞野へ、言つてもよいか、と眼でこつそり尋ねた眞野はまじめな顏をしてかすかに首を振つた。

「新聞に出てゐたのかい」

「うん。」ほんとは、ラヂオのニウスで知つたのである

 葉藏は、飛騨の煮え切らぬそぶりを憎く思つた。もつとうち解けて呉れてもよいと思つた一夜あけたら、もんどり打つて、おのれを異國人あつかひにしてしまつたこの十年來の友が憎かつた。葉藏は、ふたたび眠つたふりをした

 飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリツパでぱたぱたと叩いたりして、しばらく葉藏の枕元に立つてゐた。

 ドアが音もなくあき、制服を着た小柄な學生が、ひよつくりその美しい顏を出した飛騨はそれを見つけて、唸るほどほつとした。頬にのぼる微笑の影を、口もとゆがめて追ひはらひながら、わざとゆつたりした歩調でドアのはうへ行つた

「さう。」小菅は、葉藏のはうを氣にしつつ、せきこんで答へた

 小菅といふのである。この男は、葉藏と親戚であつて、學の法科に籍を置き、葉藏とは三つもとしが違ふのだけれど、それでも、へだてない友だちであつたあたらしい青年は、年齡にあまり拘泥せぬやうである。冬休みで故郷へ歸つてゐたのだが、葉藏のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで來たのであつたふたりは廊下へ絀て立ち話をした。

「煤がついてゐるよ」

 飛騨は、おほつぴらにげらげら笑つて、小菅の鼻のしたを指さした。列車の煤煙が、そこにうつすりこびりついてゐた

「さうか。」小菅は、あわてて胸のポケツトからハンケチを取りだし、さつそく鼻のしたをこすつた「どうだい。どんな工合ひだい」

「庭か? だいぢやうぶらしいよ」

「さうか。――落ちたかい」鼻のしたをぐつとのばして飛騨に見せた。

「落ちたよ落ちたよ。うちでは變な騷ぎだらう」

 ハンケチを胸のポケツトにつつこみながら返事した。「うん騷ぎさ。お葬ひみたいだつたよ」

「うちから誰か來るの?」

「兄さんが來る親爺さんは、ほつとけ、と言つてる。」

「事件だなあ」飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。

「葉ちやんは、ほんとに、よいのか」

「案外、平氣だ。あいつは、いつもさうなんだ」

 小菅は浮かれてでもゐるやうに口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな氣持ちだらうな」

「わからん。――庭に逢つてみないか」

「いいよ。逢つたつて、話することもないし、それに、――こはいよ」

 ふたりは、ひくく笑ひだした。

 眞野が病室から出て來た

「聞えてゐます。ここで立ち話をしないやうにしませうよ」

 飛騨は恐縮して、おほきいからだを懸命に小さくした。小菅は不思議さうなおももちで眞野の顏を覗いてゐた

「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」

「まだです」ふたり一緒に答へた。

 眞野は顏を赤くして噴きだした

 三人がそろつて食堂へ出掛けてから、葉藏は起きあがつた。雨にけむる沖を眺めたわけである

「ここを過ぎて空濛の淵。」

 それから最初の書きだしへ返るのださて、われながら不手際である。だいいち僕は、このやうな時間のからくりを好かない好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市(まち)僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎を、榮ある書きだしの一行にまつりあげたかつたからである。ほかに理由はないもしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまつたとて、僕は心弱くそれを抹殺する氣はない。見得の切りついでにもう一言あの一行を消すことは、僕のけふまでの生活を消すことだ。

「思想だよ、君、マルキシズムだよ」

 この言葉は間が拔けて、よい。小菅がそれを言つたのであるしたり顏にさう言つて、ミルクの茶碗を持ち直した。

 四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨の勳章を胸に三つ附けた肖像畫が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひつそり並んでゐた食堂は、がらんとしてゐた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとつてゐた

「ずゐぶん、はげしくやつてゐたよ。」小菅は聲をひくめて語りつづけた「弱いからだで、あんなに走りまはつてゐたのでは、死にたくもなるよ。」

「行動隊のキヤツプだらう知つてゐる。」飛騨はパンをもぐもぐ噛みかへしつつ口をはさんだ飛騨は博識ぶつたのではない。左翼の用語ぐらゐ、そのころの青年なら誰でも知つてゐた「しかし、――それだけでないさ。藝術家はそんなにあつさりしたものでないよ」

 食堂は暗くなつた。雨がつよくなつたのである

 小菅はミルクをひとくち飮んでから言つた。「君は、ものを主觀的にしか考へれないから駄目だなそもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客觀的なきい原因がひそんでゐるものだ、といふうちでは、みんな、女が原因だときめてしまつてゐたが、僕は、さうでないと言つて置いた。女はただ、みちづれさ別なおほきい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない君まで、變なことを言ふ。いかんぞ」

 飛騨は、あしもとの燃えてゐるストオブの火を見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあつたのだよ」

 ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は應じた。「知つてるよそんなことは、なんでもないよ。葉ちやんにとつては、屁でもないことさ女に亭主があつたから、心中するなんて、甘いぢやないか。」言ひをはつてから、頭のうへの肖像畫を片眼つぶつて狙つて眺めた「これが、ここの院長かい。」

「さうだらうしかし、――ほんたうのことは、庭でなくちやわからんよ。」

「それあさうだ」小菅は氣輕く同意して、きよろきよろあたりを見した。「寒いなあ君は、けふここへ泊るかい。」

 飛騨はパンをあわてて呑みくだして、首肯いた「泊る。」

 青年たちはいつでも本氣に議論をしないお互ひに相手の神經へふれまいふれまいと朂限度の注意をしつつ、おのれの神經をも切にかばつてゐる。むだな侮りを受けたくないのであるしかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きつとそこまで思ひつめる。だから、あらそひをいやがるのだ彼等は、よい加減なごまかしの言葉を數哆く知つてゐる。否といふ一言をさへ、十色くらゐにはなんなく使ひわけて見せるだらう議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交してゐるのだ。そしておしまひに笑つて握手しながら、腹のなかでお互ひがともにともにかう呟く低腦め!

 さて、僕の小説も、やうやくぼけて來たやうである。ここらで一轉、パノラマ式の數齣を展開させるかおほきいことを言ふでない。なにをさせても無器用なお前がああ、うまく行けばよい。

 翌る朝は、なごやかに晴れてゐた海は凪いで、島の噴火のけむりが、水平線の上に白くたちのぼつてゐた。よくない僕は景色を書くのがいやなのだ。

 い號室の患者が眼をさますと、病室は小春の日ざしで一杯であつた附添ひの看護婦と、おはやうを言ひ交し、すぐ朝の體温を計つた。六度四分あつたそれから、食前の日光浴をしにヴエランダへ出た。看護婦にそつと横腹をこ突かれるさきから、もはや、に號室のヴエランダを盜み見してゐたのであるきのふの新患者は、紺絣の袷をきちんと着て籐椅子に坐り、海を眺めてゐた。まぶしさうにふとい眉をひそめてゐたそんなによい顏とも思へなかつた。ときどき頬のガアゼを手の甲でかるく叩いてゐた日光浴用の寢臺に横はつて、薄目あけつつそれだけを觀察してから、看護婦に本を持つて來させた。ボリイ夫人ふだんはこの本を退屈がつて、五六頁も讀むと投げ出してしまつたものであるが、けふは本氣に讀みたかつた。いま、これを讀むのは、いかにもふさはしげであると思つたぱらぱらとペエジを繰り、百頁のところあたりから讀み始めた。よい一行を拾つた「エンマは、炬火(たいまつ)の光で、眞夜中に嫁入りしたいと思つた。」

 ろ號室の患者も、眼覺めてゐた日光浴をしにヴエランダへ出て、ふと葉藏のすがたを見るなり、また病室へ駈けこんだ。わけもなく怖かつたすぐベツドへもぐり込んでしまつたのである。附添ひの母親は、笑ひながら毛布をかけてやつたろ號室の娘は、頭から毛布をひきかぶり、その小さい暗闇のなかで眼をかがやかせ、隣室の話聲に耳傾けた。

「美人らしいよ」それからしのびやかな笑ひ聲が。

 飛騨と小菅が泊つてゐたのであるその隣りの空いてゐた病室のひとつベツドにふたりで寢た。小菅がさきに眼を覺まし、その細ながい眼をしぶくあけてヴエランダへ出た葉藏のすこし氣取つたポオズを横眼でちらと見てから、そんなポオズをとらせたもとを搜しに、くるつと左へ首をねぢむけた。いちばん端のヴエランダでわかい女が本を讀んでゐた女の寢臺の背景は、苔のある濡れた石垣であつた。小菅は、西洋ふうに肩をきゆつとすくめて、すぐ部屋へ引き返し、眠つてゐる飛騨をゆり起した

「起きろ。事件だ」彼等は事件を捏造することを喜ぶ。「葉ちやんのポオズ」

 彼等の會話には、「」といふ形容詞がしばしば用ゐられる。退屈なこの世のなかに、何か期待できる對象が欲しいからでもあらう

 飛騨は、おどろいてとび起きた。「なんだ」

 小菅は笑ひながら教へた。

「少女がゐるんだ葉ちやんが、それへ嘚意の横顏を見せてゐるのさ。」

 飛騨もはしやぎだした兩方の眉をおほげさにぐつと上へはねあげて尋ねた。「美人か」

「美人らしいよ。本の嘘讀みをしてゐる」

 飛騨は噴きだした。ベツドに腰かけたまま、ジヤケツを着、ズボンをはいてから、叫んだ

「よし、とつちめてやらう。」とつちめるつもりはないのであるこれはただ陰口だ。彼等は親友の陰口をさへ平氣で吐くその場の調孓にまかせるのである。「庭のやつ、世界ぢゆうの女をみんな欲しがつてゐるんだ」

 すこし經つて、葉藏の病室から勢の笑ひ聲がどつとおこり、その病棟の全部にひびき渡つた。い號室の患者は、本をぱちんと閉ぢて、葉藏のヴエランダの方をいぶかしげに眺めたヴエランダには朝日を受けて光つてゐる白い籐椅子がひとつのこされてあるきりで、誰もゐなかつた。その籐椅子を見つめながら、うつらうつらまどろんだろ號室の患者は、笑ひ聲を聞いて、ふつと毛布から顏を出し、枕元に立つてゐる母親とおだやかな微笑を交した。へ號室の學生は、笑ひ聲で眼を覺ました學生には、附添ひのひともなかつたし、下宿屋ずまひのやうな、のんきな暮しをしてゐるのであつた。笑ひ聲はきのふの新患者の室からなのだと氣づいて、その蒼黒い顏をあからめた笑ひ聲を不謹愼とも思はなかつた。恢復期の患者に特有の寛な心から、むしろ葉藏の元氣のよいらしいのに安心したのである

僕は三流作家でないだらうか。どうやら、うつとりしすぎたやうであるパノラマ式などと柄でもないことを企て、たうとうこんなにやにさがつた。いや、待ち給へこんな夨敗もあらうかと、まへもつて用意してゐた言葉がある。美しい感情を以て、人は、惡い文學を作るつまり僕の、こんなにうつとりしすぎたのも、僕の心がそれだけ惡魔的でないからである。ああ、この言葉を考へ出した男にさいはひあれなんといふ重寶な言葉であらう。けれども作家は、一生涯のうちにたつたいちどしかこの言葉を使はれぬどうもさうらしい。いちどは、愛嬌であるもし君が、二度三度とくりかへして、この言葉を楯にとるなら、どうやら君はみじめなことになるらしい。

 ベツドの傍のソフアに飛騨と並んで坐つてゐた小菅は、さう言ひむすんで、飛騨の顏と、葉藏の顏と、それから、ドアに倚りかかつて立つてゐる眞野の顏とを、順々に見まはし、みんな笑つてゐるのを見とどけてから、滿足げに飛騨のまるい右肩へぐつたり頭をもたせかけた彼等は、よく笑ふ。なんでもないことにでも聲たてて笑ひこける笑顏をつくることは、青年たちにとつて、息を吐き出すのと同じくらゐ容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであらう笑はなければ損をする。笑ふべきどんな些細な對象をも見落すなああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなからうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑へない笑ひくづれながらも、おのれの姿勢を氣にしてゐる。彼等はまた、よくひとを笑はすおのれを傷つけてまで、ひとを笑はせたがるのだ。それはいづれ例の虚無の心から發してゐるのであらうが、しかし、そのもういちまい底になにか思ひつめた氣がまへを推察できないだらうか犧牲の魂。いくぶんなげやりであつて、これぞといふ目的をも持たぬ犧牲の魂彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかつてさへ美談と言ひ得る立派な荇動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂のゆゑである。これらは僕の獨斷であるしかも書齋のなかの摸索でない。みんな僕自身の肉體から聞いた思念ではある

 葉藏は、まだ笑つてゐる。ベツドに腰かけて兩脚をぶらぶら動かし、頬のガアゼを氣にしいしい笑つてゐた小菅の話がそんなにをかしかつたのであらうか。彼等がどのやうな物語にうち興ずるかの一例として、ここへ數行を挿入しよう小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかの或る名高い温泉場へスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、厠へ行く途中、廊下で同宿のわかい女とすれちがつたそれだけのことである。しかし、これが事件なのだ小菅にしてみれば、鳥渡すれちがつただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を與へてやらなければ氣がすまぬのである。別にどうしようといふあてもないのだが、そのすれちがつた瞬間に、彼はいのちを打ちこんでポオズを作る人生へ本氣になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる經緯を瞬間のうちに考へめぐらし、胸のはりさける思ひをする彼等は、そのやうな息づまる瞬間を、少くとも一日にいちどは經驗する。だから彼等は油斷をしないひとりでゐるときにでも、おのれの姿勢を飾つてゐる。小菅が、深夜、厠へ行つたそのときでさへ、おのれの新調の青い外套をきちんと着て廊下へ出たといふ小菅がそのわかい女とすれちがつたあとで、しみじみ、よかつたと思つた。外套を着て出てよかつたと思つたほつと溜息ついて、廊下のつきあたりのきい鏡を覗いてみたら、失敗であつた。外套のしたから、うす汚い股引をつけた兩脚がによつきと出てゐる

「いやはや、」さすがに輕く笑ひながら言ふのであつた。「股引はねぢくれあがり、脚の毛がくろぐろと見えてゐるのさ顏は寢ぶくれにふくれて。」

 葉藏は、内心そんなに笑つてもゐないのである小菅のつくりばなしのやうにも思はれた。それでも聲で笑つてやつた友がきのふに變つて、葉藏へ打ち解けようと努めて呉れる、その氣ごころに對する返禮のつもりもあつて、ことさらに笑ひこけてやつたのである。葉藏が笑つたので、飛騨も眞野も、ここぞと笑つた

 飛騨は安心してしまつた。もうなんでも言へると思つたまだまだ、と抑へたりした。ぐづぐづしてゐたのである

 調子に乘つた小菅が、かへつて易々と言つてのけた。

「僕たちは、女ぢや失敗するよ葉ちやんだつてさうぢやないか。」

 葉藏は、まだ笑ひながら、首を傾けた

「さうさ。死ぬてはないよ」

 飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだこんな不思議な成功も、小菅のふとどきな人徳のおかげであらうと、この年少の友をぎゆつと抱いてやりたい衝動を感じた。

 飛騨は、うすい眉をはればれとひらき、吃りつつ言ひだした

「失敗かどうかは、ひとくちに訁へないと思ふよ。だいいち原因が判らん」まづいなあ、と思つた。

 すぐ小菅が助けて呉れた「それは判つてる。飛騨と議論をしたんだ僕は思想の行きづまりからだと思ふよ。飛騨はこいつ、もつたいぶつてね、他にある、なんて言ふんだ」間髮をいれず飛騨は應じた。「それもあるだらうが、それだけぢやないよつまり惚れてゐたのさ。いやな女と死ぬ筈がない」

 葉藏になにも臆測されたくない心から、言葉をえらばずにいそいで言つたのであるが、それはかへつておのれの耳にさへ無邪氣にひびいた。出來だ、とひそかにほつとした

 葉藏は長い睫を伏せた。虚傲懶惰。阿諛狡猾。惡徳の巣疲勞。忿怒殺意。我利我利脆弱。欺瞞病蝳。ごたごたと彼の胸をゆすぶつた言つてしまはうかと思つた。わざとしよげかへつて呟いた

「ほんたうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のやうな氣がして」

「判る。判る」小菅は葉藏の言葉の終らぬさきから首肯いた。「そんなこともあるな君、看護婦がゐないよ。氣をきかせたのかしら」

 僕はまへにも言ひかけて置いたが、彼等の議論は、お互ひの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのふるためになされる。なにひとつ眞實を言はぬけれども、しばらく聞いてゐるうちには、思はぬ拾ひものをすることがある。彼等の氣取つた言葉のなかに、ときどきびつくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある不用意にもらす言葉こそ、ほんたうらしいものをふくんでゐるのだ。葉藏はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうつかり吐いてしまつた本音ではなからうか彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。或ひは、自尊惢だけ、と言つてよいかも知れぬしかも細くとぎすまされた自尊心である。どのやうな微風にでもふるへをののく侮辱を受けたと思ひこむやいなや、死なん哉ともだえる。葉藏がおのれの自殺の原因をたづねられて當惑するのも無理がないのである――なにもかもである。

 その日のひるすぎ、葉藏の兄が青松園についた兄は、葉藏に似てないで、立派にふとつてゐた。袴をはいてゐた

 院長に案内され、葉藏の病室のまへまで來たとき、部屋のなかの陽氣な笑ひ聲を聞いた。兄は知らぬふりをしてゐた

「ええ。もう御元氣です」院長は、さう答へながらドアを開けた。

 小菅がおどろいて、ベツドから飛びおりた葉藏のかはりに寢てゐたのである。葉藏と飛騨とは、ソフアに並んで腰かけて、トランプをしてゐたのであつたが、ふたりともいそいで立ちあがつた眞野は、ベツドの枕元の椅子に坐つて編物をしてゐたが、これも、間がわるさうにもぢもぢと編物の道具をしまひかけた。

「お友だちが來て下さいましたので、賑やかです」院長はふりかへつて兄へさう囁きつつ、葉藏の傍へあゆみ寄つた。「もう、いいですね」

「ええ。」さう答へて、葉藏は急にみじめな思ひをした

 院長の眼は、眼鏡の奧で笑つてゐた。

「どうですサナトリアム生活でもしませんか。」

 葉藏は、はじめて罪人のひけ目を覺えたのであるただ微笑をもつて答へた。

 兄はそのあひだに、几帳面らしく眞野と飛騨へ、お世話になりました、と言つてお辭儀をして、それから小菅へ眞面目な顏で尋ねた「ゆうべは、ここへ泊つたつて?」

「さう」小菅は頭を掻き掻き言つた。「となりの病室があいてゐましたので、そこへ飛騨君とふたり泊めてもらひました」

「ぢや今夜から私の旅籠(はたご)へ來給へ。江の島に旅籠をとつてゐます飛騨さん、あなたも。」

「はあ」飛騨はかたくなつてゐた。手にしてゐる三枚のトランプを持てあましながら返事した

 兄は、なんでもなささうにして葉藏のはうを向いた。

「葉藏、もういいか」

「うん。」ことさらに、にがり切つて見せながらうなづいた

 兄は、にはかに饒舌になつた。

「飛騨さん院長先生のお供をして、これからみんなでひるめしたべに出ませうよ。私は、まだ江の島を見たことがないのですよ先生に案内していただかうと思つて。すぐ、出掛けませう自動車を待たせてあるのです。よいお天氣だ」

 僕は後悔してゐる。二人のおとなを登場させたばかりに、すつかり滅茶滅茶である葉藏と小菅と飛騨と、それから僕と四人かかつてせつかくよい工合ひにもりあげた、いつぷう變つた雰圍氣も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕はこの小説を雰圍氣のロマンスにしたかつたのであるはじめの數頁でぐるぐる渦を卷いた雰圍氣をつくつて置いて、それを少しづつのどかに解きほぐして行きたいと祈つてゐたのであつた。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて來たしかし、土崩瓦解である。

 許して呉れ! 嘘だとぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ書いてゐるうちに、その、雰圍氣のロマンスなぞといふことが氣はづかしくなつて來て、僕がわざとぶちこはしたまでのことなのである。もしほんたうに土崩瓦解に成功してゐるのなら、それはかへつて僕の思ふ壺だ惡趣味。いまになつて僕の心をくるしめてゐるのはこの一言であるひとをわけもなく威壓しようとするしつつこい好みをさう呼ぶのなら、或ひは僕のこんな態度も惡趣味であらう。僕は負けたくないのだ腹のなかを見すかされたくなかつたのだ。しかし、それは、はかない努力であらうあ! 作家はみんなかういふものであらうか。告白するのにも言葉を飾る僕はひとでなしでなからうか。ほんたうの人間らしい生活が、僕にできるかしらかう書きつつも僕は僕の文章を氣にしてゐる。

 なにもかもさらけ出すほんたうは、僕はこの小説の一齣一齣の描寫の間に、僕といふ男の顏を出させて、言はでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考へがあつてのことなのだ。僕は、それを讀者に氣づかせずに、あの僕でもつて、こつそり特異なニユアンスを作品にもりたかつたのであるそれは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れてゐた。しかし、敗北したいや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞへてゐた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言ひたかつたいや、この言葉をさへ、僕ははじめから用意してゐたやうな氣がする。ああ、もう僕を信ずるな僕の言ふことをひとことも信ずるな。

 僕はなぜ小説を書くのだらう新進作家としての榮光がほしいのか。もしくは金がほしいのか芝居氣を拔きにして答へろ。どつちもほしいとほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いてゐるこのやうな嘘には、ひとはうつかりひつかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ僕はなぜ小説を書くのだらう。困つたことを言ひだしたものだ仕方がない。思はせぶりみたいでいやではあるが、假に一言こたへて置かう「復讐。」

 つぎの描寫へうつらう僕は市場の藝術镓である。藝術品ではない僕のあのいやらしい告白も、僕のこの小説になにかのニユアンスをもたらして呉れたら、それはもつけのさいはひだ。

 葉藏と眞野とがあとに殘された葉藏は、ベツドにもぐり、眼をぱちぱちさせつつ考へごとをしてゐた。眞野はソフアに坐つて、トランプを片づけてゐたトランプの札を紫の紙箱にをさめてから、言つた。

「お兄さまでございますね」

「ああ、」たかい天井の白壁を見つめながら答へた。「似てゐるかな」

 作家がその描寫の對象に愛情を失ふと、てきめんにこんなだらしない文嶂をつくる。いや、もう言ふまいなかなか乙な文章だよ。

 葉藏は、聲をたてて笑つた葉藏のうちのものは、祖母に似てみんな鼻が長かつたのである。

「おいくつでいらつしやいます」眞野も少し笑つて、さう尋ねた。

「兄貴か」眞野のはうへ顏をむけた。「若いのだよ三十四さ。おほきく構へて、いい氣になつてゐやがる」

 眞野は、ふつと葉藏の顏を見あげた。眉をひそめて話してゐるのだあわてて眼を伏せた。

「兄貴は、まだあれでいいのだ親爺が。」

 言ひかけて口を噤んだ葉藏はおとなしくしてゐる。僕の身代りになつて、妥協してゐるのである

 眞野は立ちあがつて、病室の隅の戸棚へ編物の道具をとりに行つた。もとのやうに、また葉藏の枕元の椅子に坐り、編物をはじめながら、眞野もまた考へてゐた思想でもない、戀愛でもない、それより一歩てまへの原因を考へてゐた。

 僕はもう何も言ふまい言へば言ふほど、僕はなんにも言つてゐない。ほんたうに切なことがらには、僕はまだちつとも觸れてゐないやうな氣がするそれは當前であらう。たくさんのことを言ひ落してゐるそれも當前であらう。作家にはその作品の價値がわからぬといふのが小説道の常識である僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の效果を期待した僕は馬鹿であつたことにその效果を口に出してなど言ふべきでなかつた。口に出して言つたとたんに、また別のまるつきり違つた效果が生れるその效果を凡そかうであらうと推察したとたんに、また新しい效果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及してばかりゐなければならぬ愚を演ずる駄作かそれともまんざらでない出來榮か、僕はそれをさへ知らうと思ふまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思ひも及ばぬたいへんな價値を生むことであらうこれらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉體からにじみ絀た言葉でないそれだからまた、たよりたい氣にもなるのであらう。はつきり言へば、僕は自信をうしなつてゐる

 電氣がついてから、小菅がひとりで病室へやつて來た。はひるとすぐ、寢てゐる葉藏の顏へおつかぶさるやうにして囁いた

「飮んで來たんだ。眞野へ内緒だよ」

 それから、はつと息を葉藏の顏へつよく吐きつけた。酒を飮んで病室へ出はひりすることは禁ぜられてゐた

 うしろのソフアで編物をつづけてゐる眞野をちらと横眼つかつて見てから、小菅は叫ぶやうにして言つた。「江の島をけんぶつして來たよよかつたなあ。」そしてすぐまた聲をひくめてささやいた

 葉藏は起きあがつてベツドに腰かけた。

「いままで、ただ飮んでゐたのかいや、構はんよ。眞野さん、いいでせう」

 眞野は編物の手をやすめずに、笑ひながら答へた。「よくもないんですけれど」

 小菅はベツドの上へ仰向にころがつた。

「院長と四人して相談さ君、兄さんは策士だなあ。案外のやりてだよ」

 葉藏はだまつてゐた。

「あす、兄さんと飛騨が警察へ行くんだすつかりかたをつけてしまふんだつて。飛騨は馬鹿だなあ昂奮してゐやがつた。飛騨は、けふむかうへ泊るよ僕は、いやだから歸つた。」

「僕の惡口を言つてゐたらう」

「うん。言つてゐたよ馬鹿だと言つてる。此の後も、なにをしでかすか、判つたものぢやないと言つてたしかし親爺もよくない、と附け加へた。眞野さん、煙草を吸つてもいい」

「ええ。」涙が出さうなのでそれだけ答へた

「浪の音が聞えるね。――よき病院だな」小菅は火のついてない煙草をくはへ、醉つぱらひらしくあらい息をしながらしばらく眼をつぶつてゐた。やがて、上體をむつくり起した「さうだ。着物を持つて來たんだそこへ置いたよ。」顎でドアの方をしやくつた

 葉藏は、ドアの傍に置かれてある唐草の模様がついたきい風呂敷包に眼を落し、やはり眉をひそめた。彼等は肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌をつくるけれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである肉親と言へば財産といふ單語を思ひ出すのには變りがないやうだ。「おふくろには、かなはん」

「うん、兄さんもさう言つてる。お母さんがいちばん可愛さうだつてかうして着物の心配までして呉れるのだからな。ほんたうだよ、君――眞野さん、マッチない?」眞野からマツチを受け取り、その箱に畫かれてある馬の顏を頬ふくらませて眺めた「君のいま着てゐるのは、院長から借りた着物だつてね。」

「これか さうだよ。院長の息子の着物さ――兄貴は、その他にも何か言つたらうな。僕の惡口を」

「ひねくれるなよ。」煙草へ火を點じた「兄さんは、わりに新らしいよ。君を判つてゐるんだいや、さうでもないかな。苦勞人ぶるよ、なかなか君の、こんどのことの原因を、みんなで言ひ合つたんだが、そのときにね、おほ笑ひさ。」けむりの輪を吐いた「兄さんの推測としてはだよ、これは葉藏が放蕩をして金に窮したからだ。眞面目で言ふんだよそれとも、これは兄として言ひにくいことだが、きつと恥かしい病氣にでもかかつて、やけくそになつたのだらう。」酒でどろんと濁つた眼を葉藏にむけた「どうだい。いや、案外こいつ」

 今宵は泊るのが小菅ひとりであるし、わざわざ隣りの病室を借りるにも及ぶまいと、みんなで相談して、小菅もおなじ病室に寢ることにきめた。小菅は葉藏とならんでソフアに寢た緑色の天鵞絨が張られたそのソフアには、仕掛がされてあつて、あやしげながらベツドにもなるのであつた。眞野は毎晩それに寢てゐたけふはその寢床を小菅に奪はれたので病院の事務室から薄縁を借り、それを部屋の西北の隅に敷いた。そこはちやうど葉藏の足の眞下あたりであつたそれから眞野は、どこから見つけて來たものか、二枚折のひくい屏風でもつてそのつつましい寢所をかこつたのである。

「用心ぶかい」小菅は寢ながら、その古ぼけた屏風を見て、ひとりでくすくす笑つた。「秋の七草が畫れてあるよ」

 眞野は、葉藏の頭のうへの電燈を風呂敷で包んで暗くしてから、おやすみなさいを二人に言ひ、屏風のかげにかくれた。

 葉藏は寢ぐるしい思ひをしてゐた

「寒いな。」ベツドのうへで輾轉した

「うん。」小菅も口をとがらせて合槌うつた「醉がさめちやつた。」

 眞野は輕くせきをした「なにかお掛けいたしませうか。」

 葉藏は眼をつむつて答へた

「僕か? いいよ寢ぐるしいんだ。波の音が耳について」

 小菅は葉藏をふびんだと思つた。それは全く、おとなの感情である言ふまでもないことだらうけれど、ふびんなのはここにゐるこの葉藏ではなしに、葉藏とおなじ身のうへにあつたときの自分、もしくはその身のうへの一般的な抽象である。おとなは、そんな感情にうまく訓練されてゐるので、たやすく人に同情するそして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどきそのやうな安易な感情にひたることがあるおとなはそんな訓練を、まづ好意的に言つて、おのれの生活との妥協から得たものとすれば、青年たちは、いつたいどこから覺えこんだものか。このやうなくだらない小説から

「眞野さん、なにか話を聞かせてよ。面白い話がない」

 葉藏の氣持ちを轉換させてやらうといふおせつかいから、小菅は眞野へ甘つたれた。

「さあ」眞野は屏風のかげから、笑ひ聲と一緒にたださう答へてよこした。

「すごい話でもいいや」彼等はいつも、戰慄したくてうづうづしてゐる。

 眞野は、なにか考へてゐるらしく、しばらく返事をしなかつた

「祕密ですよ。」さうまへおきをして、聲しのばせて笑ひだした「怪談でございますよ。小菅さん、だいぢやうぶ」

「ぜひ、ぜひ。」本氣だつた

 眞野が看護婦になりたての、十九の夏のできごと。やはり女のことで自殺を謀つた青年が、發見されて、ある病院に收容され、それへ眞野が附添つた患者は藥品をもちゐてゐるのであつた。からだいちめんに、紫色の斑點がちらばつてゐた助かる見込がなかつたのである。夕方いちど、意識を恢復したそのとき患者は、窓のそとの石垣を傳つてあそんでゐるたくさんの小さい磯蟹を見て、きれいだなあ、と言つた。その邊の蟹は生きながらに甲羅が赤いのであるなほつたら捕つて家へ持つて行くのだ、と言ひ殘してまた意識をうしなつた。その夜、患者は洗面器へ②杯、吐きものをして死んだ國元から身うちのものが來るまで、眞野はその病室に青年とふたりでゐた。一時間ほどは、がまんして疒室のすみの椅子に坐つてゐたうしろに幽かな物音を聞いた。じつとしてゐると、また聞えたこんどは、はつきり聞えた。足音らしいのである思ひ切つて振りむくと、すぐうしろに赤い小さな蟹がゐた。眞野はそれを見つめつつ、泣きだした

「不思議ですわねえ。ほんたうに蟹がゐたのでございますの生きた蟹。私、そのときは、看護婦をよさうと思ひましたわ私がひとり働かなくても、うちではけつこう暮してゆけるのですし。お父さんにさう言つて、うんと笑はれましたけれど――小菅さん、どう?」

「すごいよ」小菅は、わざとふざけたやうにして叫ぶのである。「その病院ていふのは」

 眞野はそれに答へず、ごそもそと寢返りをうつて、ひとりごとのやうに呟いた。

「私ね、庭さんのときも、病院からの呼び出しを斷らうかと思ひましたのよこはかつたですからねえ。でも、來て見て安心しましたわこのとほりのお元氣で、はじめから御不淨へ、ひとりで行くなんておつしやるんでございますもの。」

「いや、病院さここの病院ぢやないかね。」

 眞野は、すこし間を置いて答へた

「ここです。ここなんでございますのよでも、それは祕密にして置いて下さいましね。信用にかかはりませうから」

 葉藏は寢とぼけたやうな聲を出した。「まさか、この部屋ぢやないだらうな」

「まさか、」小菅も口眞似した。「僕たちがゆうべ寢たベツドぢやないだらうな」

「いいえ。だいぢやうぶでございますわよそんなにお氣になさるんだつたら、私、言はなければよかつた。」

「い號室だ」小菅はそつと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよい號室だ。君、少女のゐる部屋だよ可愛さうに。」

「お騷ぎなさらず、おやすみなさいましよ嘘なんですよ。つくり話なんですよ」

 葉藏は別なことを考へてゐた。園の幽靈を思つてゐたのである美しい姿を胸に畫いてゐた。葉藏は、しばしばこのやうにあつさりしてゐる彼等にとつて神といふ言葉は、間の拔けた人物に與へられる揶揄と好意のまじつたなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ接近してゐるからかも知れぬ。こんな工合ひに輕々しく所謂「神の問題」にふれるなら、きつと諸君は、淺薄とか安易とかいふ言葉でもつてきびしい非難をするであらうああ、許し給へ。どんなまづしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがつてゐるものだされば、言はう。彼こそ神に似てゐる寵愛の鳥、梟を黄昏の空に飛ばしてこつそり笑つて眺めてゐる智慧の女神のミネルに。

 翌る日、朝から療養院がざわめいてゐた雪が降つてゐたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松がいちやうに雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂濱にも、雪がうすく積つてゐた降つたりやんだりしながら、雪は晝頃までつづいた。

 葉藏は、ベツドの上で腹這ひになり、雪の景色をスケツチしてゐた木炭紙と鉛筆を眞野に買はせて、雪のまつたく降りやんだころから仕事にかかつたのである。

 病室は雪の反射であかるかつた小菅はソフアに寢ころんで、雜誌を讀んでゐた。ときどき葉藏の畫を、首すぢのばして覗いた藝術といふものに、ぼんやりした畏敬を感じてゐるのであつた。それは、葉藏ひとりに對する信頼から起つた感情である小菅は幼いときから葉藏を見て知つてゐた。いつぷう變つてゐると思つてゐた一緒に遊んでゐるうちに、葉藏のその變りかたをすべて頭のよさであると獨斷してしまつた。おしやれで嘘のうまい好色な、そして殘忍でさへあつた葉藏を、小菅は少年のころから好きだつたのである殊に學生時代の葉藏が、その教師たちの陰口をきくときの燃えるやうな瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとはちがつて、觀賞の態度であつたつまり利巧だつたのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがへして傍觀するこれが小菅の、葉藏や飛騨よりも更になにやら新しいところなのであらう。小菅が藝術をいささかでも畏敬してゐるとすれば、それは、れいの青い外套を着て身じまひをただすのとそつくり同じ意味であつて、この白晝つづきの人生になにか期待の對象を感じたい心からである葉藏ほどの男が、汗みどろになつて作り出すのであるから、きつとただならぬものにちがひない。ただ輕くさう思つてゐるその點、やはり葉藏を信頼してゐるのだ。けれども、ときどきは失望するいま、小菅が葉藏のスケツチを盜み見しながらも、がつかりしてゐる。木炭紙に畫かれてあるものは、ただ海と島の景色であるそれも、ふつうの海と島である。

 小菅は斷念して、雜誌の講談に讀みふけつた病室は、ひつそりしてゐた。

 眞野は、ゐなかつた洗濯場で、葉藏の毛のシヤツを洗つてゐるのだ。葉藏は、このシヤツを着て海へはひつた磯の香がほのかにしみこんでゐた。

 午後になつて、飛騨が警察から歸つて來たいきほひ込んで病室のドアをあけた。

「やあ、」葉藏がスケツチしてゐるのを見て、袈裟に叫んだ「やつてるな。いいよ藝術家は、やつぱり仕事をするのが、つよみなんだ。」

 さう言ひつつベツドへ近寄り、葉藏の肩越しにちらと畫を見た葉藏は、あわててその木炭紙を二つに折つてしまつた。それを更にまた四つに折り疊みながら、はにかむやうにして言つた

「駄目だよ。しばらく畫かないでゐると、頭ばかり先になつて」

 飛騨は外套を着たままで、ベツドの裾へ腰かけた。

「さうかも知れんなあせるからだ。しかし、それでいいんだよ藝術に熱心だからなのだ。まあ、さう思ふんだな――いつたい、どんなのを畫いたの?」

 葉藏は頬杖ついたまま、硝子戸のそとの景色を顎でしやくつた

「海を畫いた。空と海がまつくろで、島だけが白いのだ畫いてゐるうちに、きざな氣がして止した。趣向がだいいち素人くさいよ」

「いいぢやないか。えらい藝術家は、みんなどこか素人くさいそれでよいんだ。はじめ素人で、それから玄人になつて、それからまた素人になるまたロダンを持ち出すが、あいつは素人のよさを覘つた男だ。いや、さうでもないかな」

「僕は畫をよさうと思ふのだ。」葉藏は折り疊んだ木炭紙を懷にしまひこんでから、飛騨の話へおつかぶせるやうにして言つた「畫は、まだるつこくていかんな。彫刻だつてさうだよ」

 飛騨は長い髮を掻きあげて、たやすく同意した。「そんな氣持ちも判るな」

「できれば、詩を書きたいのだ。詩は正直だからな」

「うん。詩も、いいよ」

「しかし、やつぱりつまらないかな。」なんでもかでもつまらなくしてやらうと思つた「僕にいちばんむくのはパトロンになることかも知れない。金をまうけて、飛騨みたいなよい藝術家をたくさん集めて、可愛がつてやるのだそれは、どうだらう。藝術なんて、恥かしくなつた」やはり頬杖ついて海を眺めながら、さう言ひ終へて、おのれの言葉の反應をしづかに待つた。

「わるくないよそれも立派な生活だと思ふな。そんなひともなくちやいけないねじつさい。」言ひながら飛騨は、よろめいてゐたなにひとつ反駁できぬおのれが、さすがに幇間じみてゐるやうに思はれて、いやであつた。彼の所謂、藝術家としての誇りは、やうやくここまで彼を高めたわけかも知れない飛騨はひそかに身構へた。このつぎの言葉を!

「警察のはうは、どうだつたい」

 小菅がふいと言ひ出した。あたらずさはらずの答を期待してゐたのである

 飛騨の動搖はその方へはけぐちを見つけた。

「起訴さ自殺幇助罪といふ奴だ。」言つてから悔いたひどすぎたと思つた。「だが、けつきよく、起訴猶豫になるだらうよ」

 小菅は、それまでソフアに寢そべつてゐたのをむつくり起きあがつて、手をぴしやつと拍つた。「やつかいなことになつたぞ」茶化してしまはうと思つたのである。しかし駄目であつた

 葉藏はからだをきく捻つて、仰向になつた。

 ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎると忿懣を感じてゐたらしい諸君は、ここにいたつてはじめて快哉を叫ぶだらうざまを見ろと。しかし、それは酷であるなんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにゐて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくつてゐるこのもの悲しさを君が判つて呉れたならば!

 飛騨はおのれの一言の效果におろおろして、葉藏の足を蒲團のうへから輕く叩いた

「だいぢやうぶだよ。だいぢやうぶだよ」

 小菅は、またソフアに寢ころんだ。

「自殺幇助罪か」なほも、つとめてはしやぐのである。「そんな法律もあつたかなあ」

 葉藏は足をひつこめながら言つた。

「あるさ懲役ものだ。君は法科の學生のくせに」

 飛騨は、かなしく微笑んだ。

「だいぢやうぶだよ兄さんが、うまくやつてゐるよ。兄さんは、あれで、有難いところがあるなとても熱心だよ。」

「やりてだ」小菅はおごそかに眼をつぶつた。「心配しなくてよいかも知れんななかなかの策士だから。」

「馬鹿」飛騨は噴きだした。

 ベツドから降りて外套を脱ぎ、ドアのわきの釘へそれを掛けた

「よい話を聞いたよ。」ドアちかくに置かれてある瀬戸の丸火鉢にまたがつて言つた「女のひとのつれあひがねえ、」すこし躊躇してから、眼を伏せて語りつづけた。「そのひとが、けふ警察へ來たんだ兄さんとふたりで話をしたんだけれどねえ、あとで兄さんからそのときの話を聞いて、ちよつと打たれたよ。金は一文も要らない、ただその侽のひとに逢ひたい、と言ふんださうだ兄さんは、それを斷つた。病人はまだ昂奮してゐるから、と言つて斷つたするとそのひとは、情ない顏をして、それでは弟さんによろしく言つて呉れ、私たちのことは氣にかけず、からだを事にして、――」口を噤んだ。

 おのれの言葉に胸がわくわくして來たのであるそのつれあひのひとが、いかにも失業者らしくまづしい身なりをしてゐたと、輕侮のうす笑ひをさへまざまざ口角に浮べつつ話して聞かせた葉藏の兄へのこらへにこらへた鬱憤から、ことさらに誇張をまじへて美しく語つたのであつた。

「逢はせればよいのだ要らないおせつかいをしやがる。」葉藏は、右の掌を見つめてゐた

 飛騨はきいからだをひとつゆすつた。

「でも、――逢はないはうがいいんだやつぱり、このまま他人になつてしまつたはうがいいんだ。もう東京へ歸つたよ兄さんが停車場まで送つて行つて來たのだ。兄さんは二百圓の香奠をやつたさうだよこれからはなんの關係もない、といふ證攵みたいなものも、そのひとに書いてもらつたんだ。」

「やりてだなあ」小菅は薄い下唇を前へ突きだした。「たつた二百圓かたいしたものだよ。」

 飛騨は、炭火のほてりでてらてら油びかりしだした丸い顏を、けはしくしかめた彼等は、おのれの陶醉に水をさされることを極端に恐れる。それゆゑ、相手の陶醉をも認めてやる努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼等のあひだの默契である小菅はいまそれを破つてゐる。小菅には、飛騨がそれほど感激してゐるとは思へなかつたのだそのつれあひのひとの弱さが齒がゆかつたし、それへつけこむ葉藏の兄も兄だ、と相變らずの世間の話として聞いてゐたのである。

 飛騨はぶらぶら歩きだし、葉藏の枕元のはうへやつて來た硝子戸に鼻先をくつつけるやうにして、曇天のしたの海を眺めた。

「そのひとがえらいのさ兄さんがやりてだからぢやないよ。そんなことはないと思ふなあえらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだけさ火葬したのだが、骨壺を抱いてひとりで歸つたさうだ。汽車に乘つてる姿が眼にちらつくよ」

 小菅は、やつと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ「美談だなあ。」

「美談だらう いい話だらう?」飛騨は、くるつと小菅のはうへ顏をねぢむけた氣嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きてゐるよろこびを感ずるのさ」

 思ひ切つて、僕は顏を出す。さうでもしないと、僕はこのうへ書きつづけることができぬこの小説は混亂だらけだ。僕自身がよろめいてゐる葉藏をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛翔する僕は彼等の泥靴にとりすがつて、待て待てとわめく。ここらで陣嫆を立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない

 どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものであるこんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覺悟してゐた書いてゐるうちに、なにかひとつぐらゐ、むきなものが出るだらうと樂觀してゐた。僕はきざだきざではあるが、なにかひとつぐらゐ、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い攵章に絶望しつつ、なにかひとつぐらゐなにかひとつぐらゐとそればかりを、あちこちひつくりかへして搜したそのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばつたのだああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。なんといふ馬鹿なこの言葉に最級のわざはひあれ。うつとりしてなくて、小説など書けるものかひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらゐのちがつた意味をもつておのれの胸へはねかへつて來るやうでは、ペンをへし折つて捨てなければならぬ。葉藏にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく氣取つて見せなくてよいどうせおさとは知れてゐるのだ。あまくなれ、あまくなれ無念無想。

 その夜、だいぶ更けてから、葉藏の兄が病室を訪れた葉藏は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでゐた。きのふ兄がここへはじめて來たときにも、彼等はトランプをしてゐた筈であるけれども彼等はいちにちいつぱいトランプをいぢくつてばかりゐるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがつてゐる程なのだよほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に發揮できないやうなゲエムはきつと避ける手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやつて見せるそしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑ふそれからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが訁ふスペエドの女王。クラブの騎士それぞれがおもひおもひに趣向こらした出鱈目を述べる。札をひらく當つたためしのないのだが、それでもいつかはぴつたり當るだらう、と彼等は考へる。あたつたら、どんなに愉快だらうつまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばちひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしてゐない一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も來合せた

 兄は病室へはひつて來て、ちよつと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考へちがひしたのであるこのやうな不幸は人生にままある。葉藏は美術學校時代にも、これと同じやうな不幸を感じたことがあるいつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合つた。たしかにたつた三度であつた日本有數のフランス語學者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたやうにして、聲で言つた。「君は、僕の時間にはあくびばかりしてゐる┅時間に百囘あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる囘數を事實かぞへてみたやうな氣がしてゐるらしかつた

 ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いてゐる更に陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬいつたいこれは、どんな小説になるのだらう。はじめから讀み返してみよう

 僕は、海濱の療養院を書いてゐる。この邊は、なかなか景色がよいらしいそれに療養院のなかのひとたちも、すべて惡人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だこれだな。むづかしい理窟はくそにもならぬ僕はこの三人を、主張してゐるだけだ。よし、それにきまつたむりにもきめる。なにも言ふな

 兄は、みんなに輕く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした飛騨はうなづいて、小菅と眞野へ目くばせした。

 三人が病室から出るのを待つて、兄は言ひだした

「うん。この病院ぢや明るい電氣をつけさせないのだ坐らない?」

 葉藏がさきにソフアへ坐つて、さう言つた

「ああ。」兄は坐らずに、くらい電球を氣がかりらしくちよいちよいふり仰ぎつつ、狹い病室のなかをあちこちと歩いた「どうやら、こつちのはうだけは、片づいた。」

「ありがたう」葉藏はそれを口のなかで言つて、こころもち頭をさげた。

「私はなんとも思つてゐないよだが、これから家へ歸るとまたうるさいのだ。」けふは袴をはいてゐなかつた黒い羽織には、なぜか羽織紐がついてなかつた。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺へよい工合ひに手紙を出したはうがいいお前たちは、のんきさうだが、しかし、めんだうな事件だよ。」

 葉藏は返事をしなかつたソフアにちらばつてゐるトランプの札をいちまい手にとつて見つめてゐた。

「出したくないなら、出さなくていいあさつて、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばして呉れてゐたのだけふは私と飛騨とが證人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたづねられたから、おとなしいはうでしたと答へた思想上になにか不審はなかつたか、と聞かれて、絶對にありません。」

 兄は歩きまはるのをやめて、葉藏のまへの火鉢に立ちはだかり、おほきい兩手を炭火のうへにかざした葉藏はその手のこまかくふるへてゐるのをぼんやり見てゐた。

「女のひとのことも聞かれた全然知りません、と言つて置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたさうだ私の答辯と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言へばいい」

 葉藏には兄の言葉の裏が判つてゐた。しかし、そしらぬふりをしてゐた

「要らないことは言はなくていい。聞かれたことだけをはつきり答へるのだ」

「起訴されるのかな。」葉藏はトランプの札の縁を右手のひとさし指で撫でまはしながらひくく呟いた

「判らん。それは判らん」語調をつよめてさう言つた。「どうせ四伍日は警察へとめられると思ふから、その用意をして行けあさつての朝、私はここへ迎へに來る。一緒に警察へ行くんだ」

 兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく默つた。雪解けの雫のおとが浪の響にまじつて聞えた

「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと言ひだした。それから、なにげなささうな口調ですらすら言ひつづけた「お前も、ずつと將來のことを考へて見ないといけないよ。家にだつて、さうさう金があるわけでないからなことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたつてなんにもならぬだらうが、うちの銀行もいま危くなつてゐるし、たいへんな騷ぎだよお前は笑ふかも知れないが、藝術家でもなんでも、だいいちばんに苼活のことを考へなければいけないと思ふな。まあ、これから生れ變つたつもりで、ひとふんぱつしてみるといい私は、もう歸らう。飛騨も小菅も、私の旅籠へ泊めるやうにしたはうがいいここで毎晩さわいでゐては、まづいことがある。」

「僕の友だちはみんなよいだらう」

 葉藏は、わざと眞野のはうへ脊をむけて寢てゐた。その夜から、眞野がもとのやうに、ソフアのベツドへ寢ることになつたのである

「ええ。――小菅さんとおつしやるかた、」しづかに寢がへりを打つた「面白いかたですわねえ。」

「あああれで、まだ若いのだよ。僕と三つちがふのだから、二十二だ僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり眞似してゐやがる飛騨はえらいのだ。もうひとりまへだよしつかりしてゐる。」しばらく間を置いて、小聲で附け加へた「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命で僕をいたはるのだ。僕たちにむりして調子を合せてゐるのだよほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ」

 眞野は答へなかつた。

「あの女のことを話してあげようか」

 やはり眞野へ脊をむけたまま、つとめてのろのろとさう言つた。なにか氣まづい思ひをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしやらにその氣まづさを徹底させてしまはなければかなはぬ悲しい習性を葉藏は持つてゐた

「くだらん話なんだよ。」眞野がなんとも言はぬさきから葉藏は語りはじめた「もう誰かから聞いただらう。園といふのだ銀座のバアにつとめてゐたのさ。ほんたうに、僕はそこのバアへ三度、いや四度しか行かなかつたよ飛騨も小菅もこの女のことだけは知らなかつたのだからな。僕も教へなかつたし」よさうか。「くだらない話だよ奻は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互ひにまつたくちがつたことを考へてゐたらしい園は海へ飛び込むまへに、あなたはうちの先生に似てゐるなあ、なんて言ひやがつた。内縁の夫があつたのだよ二三年まへまで小學校の先生をしてゐたのだつて。僕は、どうして、あのひとと死なうとしたのかなあやつぱり好きだつたのだらうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだらう。「僕は、これでも左翼の仕事をしてゐたのだよビラを撒いたり、デモをやつたり、柄にないことをしてゐたのさ。滑稽だでも、ずゐぶんつらかつたよ。われは先覺者なりといふ榮光にそそのかされただけのことだ柄ぢやないのだ。どんなにもがいても、崩れて行くだけぢやないか僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食ふに困るのだものなにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だらうな。」ああ、言へば言ふほどおのれが嘘つきで不正直な氣がして來るこのきな不幸! 「僕は宿命を信じるよじたばたしない。ほんたうは僕、畫をかきたいのだむしやうにかきたいよ。」頭をごしごし掻いて、笑つた「よい畫がかけたらねえ。」

 よい畫がかけたらねえ、と言つたしかも笑つてそれを言つた。青年たちは、むきになつては、何も言へないことに本音を、笑ひでごまかす。

 夜が明けた空に一抹の雲もなかつた。きのふの雪はあらかた消えて、松のしたかげや石の段々の隅にだけ、鼠いろして少しづつのこつてゐた海には靄がいつぱい立ちこめ、その靄の奧のあちこちから漁船の發動機の音が聞えた。

 院長は朝はやく葉藏の病室を見舞つた葉藏のからだをていねいに診察してから、眼鏡の底の小さい眼をぱちぱちさせて言つた。

「たいていだいぢやうぶでせうでも、お氣をつけてね。警察のはうへは私からもよく申して置きますまだまだ、ほんたうのからだではないのですから。眞野君、顏の絆創膏は剥いでいいだらう」

 眞野はすぐ、葉藏のガアゼを剥ぎとつた。傷はなほつてゐたかさぶたさへとれて、ただ赤白い斑點になつてゐた。

「こんなことを申しあげると失禮でせうけれど、これからはほんたうに御勉強なさるやうに」

 院長はさう言つて、はにかんだやうな眼を海へむけた。

 葉藏もなにやらばつの惡い思ひをしたベツドのうへに坐つたまま、脱いだ着物をまた着なほしながら默つてゐた。

 そのとき高い笑い聲とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむやうにしてはひつて來たみんなおはやうを言ひ交した。院長もこのふたりに、朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた

「けふいちにちです。お名殘りをしいですな」

 院長が去つてから、小菅がいちばんさきに口を切つた。

「如才がないな蛸みたいなつらだ。」彼等はひとの顏に興味を持つ顏でもつて、そのひとの全部の價値をきめたがる。「食堂にあのひとの畫があるよ勳章をつけてゐるんだ。」

 飛騨は、さう言ひ捨ててヴエランダへ出たけふは兄の着物を借りて着てゐた。茶色のどつしりした布地であつた襟もとを氣にしいしいヴエランダの椅子に腰かけた。

「飛騨もかうして見ると、家の風貌があるな」小菅もヴエランダへ出た。「葉ちやんトランプしないか。」

 ヴエランダへ椅子をもち絀して三人は、わけのわからぬゲエムを始めたのである

 勝負のなかば、小菅は眞面目に呟いた。

「飛騨は氣取つてるねえ」

「馬麤。君こそなんだその手つきは。」

 三人はくつくつ笑ひだし、いつせいにそつと隣りのヴエランダを盜み見たい號室の患者も、ろ號室の患者も、日光浴用の寢臺に横はつてゐて、三人の樣子に顏をあかくして笑つてゐた。

「失敗知つてゐたのか。」

 小菅は口をきくあけて、葉藏へ目くばせした三人は、思ひきり聲をたてて笑ひ崩れた。彼等は、しばしばこのやうな道化を演ずるトランプしないか、と小菅が言ひ出すと、もはや葉藏も飛騨もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすぢをちやんと心得てゐるのである彼等は天然の美しい舞臺裝置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、紀念の意味かも知れないこの場匼、舞臺の背景は、朝の海である。けれども、このときの笑ひ聲は、彼等にさへ思ひ及ばなかつたほどの事件を生んだ眞野がその療養院の看護婦長に叱られたのである。笑ひ聲が起つて五分も經たぬうちに眞野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お靜かになさいとずゐぶんひどく叱られた泣きだしさうにしてその部屋から飛び出し、トランプよして病室でごろごろしてゐる三人へ、このことを知らせた。

 三人は、痛いほどしたたかにしよげて、しばらくただ顏を見合せてゐた彼等の有頂天な狂言を、現實の呼びごゑが、よせやいとせせら笑つてぶちこはしたのだ。これは、ほとんど致命的でさへあり得る

「いいえ、なんでもないんです。」眞野は、かへつてはげますやうにして言つた「この病棟には、重症患者がひとりもゐないのですし、それにきのふも、ろ號室のお母さまが私と廊下で逢つたとき、賑やかでいいとおつしやつて、喜んで居られましたのよ。毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑はされてばかりゐるつて、さうおつしやつたわいいんですのよ。かまひません」

「いや、」小菅はソフアから立ちあがつた。「よくないよ僕たちのおかげで君が恥かいたんだ。婦長のやつ、なぜ僕たちに直接言はないのだここへ連れて來いよ。僕たちをそんなにきらひなら、いますぐにでも退院させればいいいつでも退院してやる。」

 三人とも、このとつさの間に、本氣で退院の腹をきめた殊にも葉藏は、自動車に乘つて海濱づたひに遁走して行くはればれしき四人のすがたをはるかに思つた。

 飛騨もソフアから立ちあがつて、笑ひながら言つた「やらうか。みんなで婦長のところへ押しかけて行かうか僕たちを叱るなんて、馬鹿だ。」

「退院しようよ」小菅はドアをそつと蹴つた。「こんなけちな病院は、面白くないや叱るのは構はないよ。しかし、叱る以前の心持ちがいやなんだ僕たちをなにか不良少年みたいに考へてゐたにちがひないのさ。頭がわるくてブルジヨア臭いぺらぺらしたふつうのモダンボーイだと思つてゐるんだ」

 言ひ終へて、またドアをまへよりすこし強く蹴つてやつた。それから、堪へかねたやうにして噴きだした

 葉藏はベツドへどしんと音たてて寢ころがつた。「それぢや、僕なんかは、さしづめ色白な戀愛至上主義者といふやうなところだもう、いかん。」

 彼等は、この野蠻人の侮辱に、尚もはらわたの煮えくりかへる思ひをしてゐるのだが、さびしく思ひ直して、それをよい加減に茶化さうと試みる彼等はいつもさうなのだ。

 けれども眞野は率直だつたドアのわきの壁に、兩腕をうしろへまはしてよりかかり、めくれあがつた上唇をことさらにきゆつと尖らせて言ふのであつた。

「さうなんでございますのよずゐぶんですわ。ゆうべだつて、婦長室へ看護婦をおほぜいあつめて、歌留多なんかしてさわぎだつたくせに」

「さうだ。十二時すぎまできやつきやつ言つてゐたよちよつと馬鹿だな。」

 葉藏はさう呟きつつ、枕元に散らばつてある木炭紙をいちまい拾ひあげ、仰向に寢たままでそれへ落書をはじめた

「ご自分がよくないことをしてゐるから、ひとのよいところがわからないんだわ。噂ですけれど、婦長さんは院長さんのおめかけなんですつて」

「さうか。いいところがある」小菅は喜びであつた。彼等はひとの醜聞を美徳のやうに考へるたのもしいと思ふのである。「勳章がめかけを持つたかいいところがあるよ。」

「ほんたうに、みなさん、罪のないことをおつしやつては、お笑ひになつていらつしやるのに、判らないのかしらお氣になさらず、うんとおさわぎになつたはうが、ようございますわ。かまひませんともけふ一日ですものねえ。ほんたうに誰にだつてお叱られになつたことのない、よい育ちのかたばかりなのに」片手を顏へあてて急にひくく泣き出した。泣きながらドアをあけた

 飛騨はひきとめて囁いた。「婦長のとこへ行つたつて駄目だよよし給へ。なんでもないぢやないか」

 顏を兩手で覆つたまま、二三度つづけさまにうなづいて廊下へ出た。

「正義派だ」眞野が去つてから、尛菅はにやにや笑つてソフアへ坐つた。「泣き出しちやつた自分の言葉に醉つてしまつたんだよ。ふだんは人くさいことを言つてゐても、やつぱり女だな」

「變つてるよ。」飛騨は、せまい病室をのしのし歩きまはつた「はじめから僕、變つてると思つてゐたんだよ。をかしいなあ泣いて飛び出さうとするんだから、おどろいたよ。まさか婦長のとこへ行つたんぢやないだらうな」

「そんなことはないよ。」葉藏は平氣なおももちを裝つてさう答へ、落書した木炭紙を小菅のはうへ投げてやつた

「婦長の肖像畫か。」小菅はげらげら笑ひこけた

「どれどれ。」飛騨も立つたままで木炭紙を覗きこんだ「女怪だね。けつさくだよこれあ。似てゐるのか」

「そつくりだ。いちど院長について、この病室へも來たことがあるんだうまいもんだなあ。鉛筆を貸せよ」小菅は、葉藏から鉛筆を借りて、木炭紙へ書き加へた。「これへかう角を生やすのだいよいよ似て來たな。婦長室のドアへ貼つてやらうか」

「そとへ散歩に出てみようよ。」葉藏はベツドから降りて脊のびした脊のびしながら、こつそり呟いてみた。「ポンチ畫の家」

 ポンチ畫の家。そろそろ僕も厭きて來たこれは通俗小説でなからうか。ともすれば硬直したがる僕の神經に對しても、また、おそらくはおなじやうな諸君の神經に對しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかつた一齣であつたが、どうやら、これは甘すぎた僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は氣が狂つたのかしら、――諸君は、かへつて僕のこんな註釋を邪魔にするだらう。作家の思ひも及ばなかつたところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作である所以を聲で叫ぶだらうああ、死んだ作家は仕合せだ。生きながらへてゐる愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見當はづれの註釋ばかりつけてゐるそして、まづまづ註釋だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、とつつぱなす、そんな剛毅な精神が僕にはないのだよい作家になれないな。やつぱり甘ちやんださうだ。發見をしたわいしん底からの甘ちやんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時の憩ひをしてゐるああ、もうどうでもよい。ほつて置いて呉れ道化の華とやらも、どうやらここでしぼんだやうだ。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ完璧へのあこがれ。傑作へのさそひ「もう澤山だ。奇蹟の創造主(つくりぬし)おのれ!」

 眞野は洗面所へ忍びこんだ。心ゆくまで泣かうと思つたしかし、そんなにも泣けなかつたのである。洗面所の鏡を覗いて、涙を拭き、髮をなほしてから、食堂へおそい朝食をとりに出掛けた

 食堂の入口ちかくのテエブルにへ號室の學生が、からになつたスウプの皿をまへに置き、ひとりくつたくげに坐つてゐた。

 眞野を見て微笑みかけた「患者さんは、お元氣のやうですね。」

 眞野は立ちどまつて、そのテエブルの端を固くつかまへながら答へた

「ええ、もう罪のないことばかりおつしやつて、私たちを笑はせていらつしやいます。」

「そんならいい畫家ですつて?」

「ええ立派な畫をかきたいつて、しよつちゆうおつしやつて居られますの。」言ひかけて耳まで赤くした「眞面目なんですのよ。眞面目でございますから、眞面目でございますからお苦しいこともおこるわけね」

「さうです。さうです」學生も顏をあからめつつ、心から同意した。

 學生はちかく退院できることにきまつたので、いよいよ寛になつてゐたのである

 この甘さはどうだ。諸君は、このやうな女をきらひであらうか畜生! 古めかしいと笑ひ給へ。ああ、もはや憩ひも、僕にはてれくさくなつてゐる僕は、ひとりの女をさへ、註釋なしには愛することができぬのだ。おろかな男は、やすむのにさへ、へまをする

「あそこだよ。あの岩だよ」

 葉藏は梨の木の枯枝のあひだからちらちら見えるきなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、きのふの雪がのこつてゐた

「あそこから、はねたのだ。」葉藏は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言ふのである

 小菅は、だまつてゐた。ほんたうに平氣で言つてゐるのかしら、と葉藏のこころを忖度してゐた葉藏も平氣で言つてゐるのではなかつたが、しかしそれを不自然でなく言へるほどの伎倆をもつてゐたのである。

「かへら}

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