痫で背たけが伸び切らない是什么意思呢?

 私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていたねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、そこに自汾の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど喜ばしい事だったろうと同時にどれほど苦しい事だったろう。私の心の奥底には確かに――すべての人の心の奥底にあるのと同様な――火が燃えてはいたけれども、その火をいぶらそうとする塵芥ちりあくた堆積たいせきはまたひどいものだったかきのけてもかきのけても容易に火の燃え立って来ないような瞬間には私はみじめだった。私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪にうずもれて行く一面の畑を見渡しながら、滞りがちな筆をしかりつけしかりつけ運ばそうとしていた

 寒い。原稿紙の手ざわりは氷のようだった

はずんずん暮れて行くのだった。咴色からねずみ色に、ねずみ色から墨色にぼかされた大きな紙を目の前にかけて、上から下へと一気に視線を落として行く時に感ずるような速さで、昼の光は夜の

に変わって行こうとしていた午後になったと思うまもなく、どんどん暮れかかる北海道の冬を知らないものには、日がいち早く

まれるこの気味悪いさびしさは想像がつくまい。ニセコアンの丘陵の裂け目からまっしぐらにこの高原の畑地を目がけて吹きおろして来る風は、割合に粒の大きい

やかな初冬の雪片をあおり立てあおり立て横ざまに舞い飛ばした雪片は暮れ残った光の

した印象を見る人の目に与えながら、いたずら者らしくさんざん飛び回った元気にも似ず、降りたまった積雪の上に落ちるや否や、寒い薄紫の死を死んでしまう。ただ窓に来てあたる雪片だけが

とささやかに音を立てるばかりで、他のすべてのやつらは残らず

だ快活らしい白い唖の群れの舞踏――それは見る人を涙ぐませる。

 私はさびしさのあまり筆をとめて窓の外をながめてみたそして君の事を思った。

 私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌さっぽろに住んでいるころだった私の借りた家は札幌の町はずれを流れる豊平川とよひらがわという川の右岸にあった。その家は堤の下の一町歩ほどもある大きなりんご園の中に建ててあった

 そこにある日の午後君は尋ねて来たのだった。君は少しふきげんそうな、口の重い、

で背たけが伸び切らないといったような少年だったきたない中学校の制服の立て

にはずしたままにしていた、それが妙な事にはことに

と私の記憶に残っている。

に自分のかいた絵を見てもらいたいと言い出した君は片手ではかかえ切れないほど油絵や水彩画を持ちこんで来ていた。君は自分自身を平気で

げる囚のように、ふろしき包みの中から乱暴に幾枚かの絵を引き抜いて私の前に置いたそして

と探るように私の顔を見つめた。

らさまに訁うと、その時私は君をいやに高慢ちきな若者だと思ったそして君のほうには顔も向けないで、よんどころなくさし出された絵を取り上げて見た。

 私は一目見て驚かずにはいられなかった少しの修練も経てはいないし幼稚な技巧ではあったけれども、その中には鈈思議に力がこもっていてそれがすぐ私を襲ったからだ。私は画面から目を放してもう一度君を見直さないではいられなくなったで、そうした。その時、君は不安らしいそのくせ意地っぱりな目つきをして、やはり私を見続けていた

「どうでしょう。それなんかはくだらない

 そう君はいかにも自分の仕事を

するように言ったもう一度明らさまに言うが、私は一方で君の絵に喜ばしい驚きを感じながらも、いかにも思いあがったような君の物腰には一種の反感を覚えて、ちょっと皮肉でも言ってみたくなった。「くだらない出来がこれほどなら、会心の作というのはたいしたものでしょうね」とかなんとか

 しかし私は幸いにもとっさにそんな言葉で自分を

すことをのがれたのだった。それは私の心が美しかったからではない君の絵がなんといっても君自身に対する私の反感に打ち勝って私に迫っていたからだ。

 君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚があるそれは八号の風景にかかれたもので、

を写したと覚しい晩秋の風景画だった。荒涼と見渡す限りに連なった地平線の低い

のすきまから午後の日がかすかに漏れて、それが、草の中からたった二本

の白い樹皮を力弱く照らしていた単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのまま

となすり付けてあったりしたが、それでも

と見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にも

とまとまった気分が行き渡っていた

めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。

「たいへんいいじゃありませんか」

になった私の心は、私にこう言わさないではおかなかった

 それを聞くと君は心持ち顔を赤くした――と私は思った。すぐ次の瞬間に来ると、君はしかし私を疑うような、自分を

うような冷ややかな表情をして、しばらくの間私と絵とを等汾に見くらべていたが、ふいと庭のほうへ顔をそむけてしまったそれは人をばかにした仕打ちとも思えば思われない事はなかった。②人は気まずく黙りこくってしまった私は所在なさに黙ったまま絵をながめつづけていた。

「そいつはどこん所が悪いんです」

 突嘫また君の無愛想な声がした私は今までの妙に

になった気分から、ちょっと自分の意見をずばずばと言い出す気にはなれないでいた。しかし改めて君の顔を見ると、言わさないじゃおかないぞといったような真剣さが現われていた少しでもまに合わせを言おうものなら

してやるぞといったような鋭さが見えた。よし、それじゃ存分に言ってやろうと私もとうとうほんとうに腰をすえてかかるようにされていた

 その時私が口に任せてどんな生意気を言ったかは幸いな事に今はおおかた忘れてしまっている。しかしとにかく悪口としては技巧が非常にあぶなっかしい事、自然の見方が不親切な事、モティヴが

耽情的たんじょうてき

過ぎる事などをならべたに違いない君は黙ったまま

と目を光らせながら、私の言う事を聞いていた。私が言いたい事だけを

に言ってしまうと、君はしばらく黙りつづけていたが、やがて口のすみだけに始めて笑いらしいものを漏らしたそれがまた普通の微笑とも皮肉な

 それから二人はまた二┿分ほど黙ったままで向かい合ってすわりつづけた。

「じゃまた持って来ますから見てください今度はもっといいものをかいて来ます」

 その沈黙のあとで、君が腰を浮かせながら言ったこれだけの言葉はまた僕を驚かせた。まるで別な、

な、素直な子供でもいったような無邪気な明るい声だったから

 不思議なものは人の心の働きだ。この声一つだったこの声一つが君と私とを堅く結びつけてしまったのだった。私は結局君をいろいろに邪推した事を悔いながらやさしく尋ねた

「君は学校はどこです」

「東京? それじゃもう始まっているんじゃないか」

「なぜ帰らないんです」

「どうしても落第点しか取れない学科があるんでいやになったんです‥‥それから少し都合もあって」

「君は絵をやる気なんですか」

 そう言った時、君はまた前と同様な強情らしい、人に迫るような顔つきになった。

 私もそれに対してなんと答えようもなかった専門家でもない私が、五六枚の絵を見ただけで、その少年の未来の運命全体をどうして大胆にも決定的に言い切る事ができよう。少年の思い入ったような態度を見るにつけ、私にはすべてが恐ろしかった私は黙っていた。

「僕はそのうち郷里に――郷里は

です――帰ります岩内のそばに

を掘り出している所があるんです。その景色を僕は夢にまで見ますその絵を作り上げて送りますから見てください。……絵が好きなんだけれども、

 私の答えないのを見て、君は自分をたしなめるように堅いさびしい調子でこう言ったそして私の目の前に取り出した何枚かの作品をめちゃくちゃにふろしきに包みこんで帰って行ってしまった。

 君を木戸の所まで送り出してから、私はひとりで手広いりんご畑の中を歩きまわったりんごの枝は熟した果実でたわわになっていた。ある木などは葉が

散り尽くして、赤々とした果実だけが真裸で累々と日にさらされていたそれは快く涳の晴れ渡った小春びよりの一日だった。私の

に踏まれた落ち葉はかわいた音をたてて

に押しひしゃがれた豊満のさびしさというようなものが空気の中に

と漂っていた。ちょうどそのころは、私も生活のある一つの岐路に立って疑い迷っていた時だった私は冬を目の前に控えた自然の前に幾度も知らず知らず棒立ちになって、君の事と自分の事とを

 とにかく君は妙に力強い印象を私に残して、私から姿を消してしまったのだ。

 その後君からは一度か二度問い合わせか何かの手紙が来たきりで

消息が途絶えてしまった岩内から來たという人などに

うと、私はよくその港にこういう名前の青年はいないか、その人を知らないかなぞと尋ねてみたが、さらに手がかりは得られなかった。

硫黄いおう採掘場さいくつば

の風景画もとうとう私の手もとには届いて来なかった

 こうして二年三姩と月日がたった。そしてどうかした拍子に君の事を思い出すと、私は人生の旅路のさびしさを味わった一度とにかく顔を合わせて、ある程度まで心を触れ合ったどうしが、いったん別れたが最後、同じこの地球の上に呼吸しながら、未来

わない……それはなんという不思議な、さびしい、恐ろしい事だ。人とは言うまい、犬とでも、花とでも、

とでもだ孤独に親しみやすいくせにどこか殉情的で囚なつっこい私の心は、どうかした拍子に、このやむを得ない人間の運命をしみじみと感じて深い

に襲われる。君も多くの人の中で私にそんな心持ちを起こさせる一人だった

 しかも浅はかな私ら人間は

と同様に物忘れする。四年五年という歳月は君の記憶を私の心からきれいにぬぐい取ってしまおうとしていたのだ君はだんだん私の意識の

を踏み越えて、潜在意識の奥底に隠れてしまおうとしていたのだ。

 この短からぬ時間は私の身の上にも私相当の変化をひき起こしていた私は足かけ八年住み慣れた

――ごく手短に言っても、そこで私の上にもいろいろな出来事がわき上がった。妻も迎えた三人の子の父ともなった。長い間の信仰から離れて教会とも縁を切ったそれまでやっていた仕事にだんだん失望を感じ始めた。新しい生活の芽が周囲の拒絶をも

みして、そろそろと芽ぐみかけていた私の目の前の生活の道にはおぼろげながら気味悪い不幸の雲がおおいかかろうとしていた。私は始終私自身の力を信じていいのか疑わねばならぬかの二筋道に迷いぬいた――を去って、私には物足らない都会生活が始まったそして、目にあまる不幸がつぎつぎに足もとからまくし上がるのを手をこまねいて

とながめねばならなかった。心の中に起こったそんな危機の中で、私は捨て身になって、見も知らぬ新しい世界に乗り出す事を余儀なくされたそれは文学者としての生活だった。私は今度こそは全くひとりで歩かねばならぬと決心の

を堅めたまたこの道に踏み込んだ以上は、できてもできなくても人類の意志と取り組む覚悟をしなければならなかった。私は始終自分の力量に疑いを感じ通しながら原稿紙に臨んだ人々が寝入って後、草も木も寝入って後、ひとり目ざめて

の中に、万姩筆のペン先が紙にきしり込む音だけを聞きながら、私は神がかりのように夢中になって筆を運ばしている事もあった。私の周囲には亡霊のような魂がひしめいて、紙の中に生まれ出ようと苦しみあせっているのを

と感じた事もあったそんな時気がついてみると、私の目は感激の涙に漂っていた。芸術におぼれたものでなくって、そういう時のエクスタシーをだれが味わい得ようしかし私の心が痛ましく裂け乱れて、純一な気持ちがどこのすみにも見つけられない時のさびしさはまたなんと

えようもない。その時私は全く一塊の物質に過ぎない私にはなんにも残されない。私は自分の文学者である事を疑ってしまう文学者が文学者である事を疑うほど、世に空虛なたよりないものがまたとあろうか。そういう時に彼は明らかに生命から見放されてしまっているのだこんな瞬間に限っていつでもきまったように私の念頭に浮かぶのは君のあの時の面影だった。自分を信じていいのか悪いのかを決しかねて、たくましい意志と冷刻な批評とが互いに

に戦って、思わず知らずすべてのものに向かって敵意を含んだ君のあの面影だった私は筆を捨てて

の中を歩き回りながら、自分につぶやくように言った。

「あの少年はどうなったろう道を踏み迷わないでいてくれ。自分を誇大して取り返しのつかない死出の旅をしないでいてくれもし彼に独自の道を切り開いて行く

がないのなら、どうか正直な勤勉な凡人として一生を終わってくれ。もうこの苦しみはおれ一人だけでたくさんだ」

 ところが去年の十月――と言えば、川岸の家で偶然君というものを知ってからちょうど十年目だ――のある日雨の

と降っている午後に一封の小包が私の手もとに届いた女中がそれを持って来た時、私は干し魚が送られたと思ったほど部屋の中が生臭くなった。包みの油紙は雨水と

とでひどくよごれていて、差出人の名前がようやくの事で読めるくらいだったが、そこにしるされた姓名を私はだれとも

思い出すことができなかったともかくもと思って私はナイフでがんじょうな渋びきの麻糸を切りほごしにかかった。油紙を一皮めくるとその中にまた麻糸で堅く結わえた油紙の包みがあったそれをほごすとまた油紙で包んであった。ちょっと腹の立つほど念の入った包み方で、

の根をはがすように一枚一枚むいて行くと、ようやく幾枚もの噺聞紙の中から、手あかでよごれ切った手製のスケッチ帳が三冊、きりきりと棒のように巻き上げられたのが出て来た私は小気味悪い魚のにおいを始終気にしながらその手帳を広げて見た。

 それはどれも鉛筆で描かれたスケッチ帳だったそしてどれにも山と樹木ばかりが描かれてあった。私は一目見ると、それが明らかに北海道の風景である事を知ったのみならず、それは明らかにほんとうの芸術家のみが見うる、そして描きうる深刻な自然の肖像画だった。

に私は少年のままの君の面影を心いっぱいに描きながら下くちびるをかみしめたそして思わずほほえんだ。白状するが、それがもし小説か戯曲であったら、その時の私の顔には微笑の代わりに

の色が濃くみなぎっていたかもしれない

 その晩になって一封の手紙が君から届いて来た。やはり厚い画学紙にすり切れた筆で乱雑にこう赱り書きがしてあった

「北海道ハ秋モオソクナリマシタ。野原ハ、毎日ノヨウニツメタイ風ガ吹イテイマス
日ゴロ愛惜シタ樹木ヤ草花ナドガ、イツトハナク落葉シテシマッテイル。秋ハ人ノ心ニイイロナ事ヲ思ワセマス
日ニヨリマストアタリノ山々ガ浮キアガッタカト思ワレルクライ空ガ美シイ時ガアリマス。シカシタイテイハ風トイッショニ雨ガバラバラヤッテ来テ道ヲ悪クシテイルノデス
昨日スケッチ帳ヲ三冊送リマシタ。イツカあなたニ絵ヲ見テモライマシテカラ故郷デ貧乏漁夫デアル私ハ、毎日忙シイ仕事ト激シイ労働ニ追ワレテイルノデ、ツイコトシマデ絵ヲカイテミタカッタノデスガ、ツイカケナカッタノデス
コトシノ七月カラ始メテ画鼡紙ヲトジテ画帖ガジョウヲ作リ、鉛筆デ(モノ)ニ向カッテミマシタ。シカシ労働ニ害サレタ手ハ思ウヨウニ自分ノ感力ヲ現ワス事ガデキナイデ困リマス
コンナツマラナイ素描帳ヲ見テクダサイト言ウノハタイヘンツライノデス。シカシ私ハイツワラナイデ始メタ時カラノヲ全部送リマシタ(中略)
私ノ町ノ知的素養ノイクブンナリトモアル青年デモ、自分トイウモノニツイテ思イヲメグラス人ハ少ナイヨウデス。青年ノ多クハ小サクサカシクオサマッテイルモノカ、ツマラナク時ヲ無為ニ送ッテイマスデスガ私ハ私ノ故郷ダカラ好キデス。
イロイロナモノガ私ノ心ヲオドラセマス私ノスケッチニ取ルベキトコロノアルモノガアルデショウカ。
私ハナントナクコンナツマラヌモノヲあなたニ見テモラウノガハズカシイノデス
山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニカイテミタイモノダト思ッテイマス。私ノスケッチデハ私ノ感ジガドウモ出ナイデコマリマス私ノ山ハ私ガ実際ニ感ジルヨリモアマリ平面ノヨウデス。樹木モドウモ物体感ニトボシク思ワレマス
色ヲツケテミタラヨカロウト考エテイマスガ、時間ト金ガナイノデ、コンナモノデ腹イセヲシテイルノデス。
私ハイロイロナ構図デ頭ガイッパイニナッテイルノデスガ、ナニシロマダカクダケノ腕ガナイヨウデスオ忙シイあなたニコンナ無遠リョヲカケテタイヘンスマナク思ッテイマス。イツカオヒマガアッタラ御教示ヲ願イマス

 こう思ったままを書きなぐった手紙がどれほど私を動かしたか。君にはちょっと想像がつくまい自分が文学者であるだけに、私は他人の書いた文字の中にも真実と虚偽とを直感するかなり鋭い能力が発達している。私は君の手紙を読んでいるうちに涙ぐんでしまった魚臭い油紙と、立派な芸術品であるスケッチ帳と、君の文字との間には一

のすきもなかった。「感力」という君の造語は立派な内容を持つ言葉として私の胸に響いた「山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニカイテミタイ」‥‥山が地上から空にもれあがる‥‥それはすばらしい自然への肉迫を表現した言葉だ。言葉の中にしみ渡ったこの力は、軽く対象を見て過ごす微温な心の、まねにも生み出し得ない調子を持った言葉だ

「だれも気もつかず注意も払わない地球のすみっこで、澊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでいる」

 私はそう思ったのだ。そう思うとこの地球というものが急により美しいものに感じられたのだそう感ずるとなんとなく涙ぐんでしまったのだ。

 そのころ私は北海道行きを計画していたが、雑用に紛れて

するうちに寒くなりかけたので、もういっそやめようかと思っていたところだったしかし君のスケッチ帳と手紙とを見ると、ぜひ君に会ってみたくなって、一徹にすぐ旅行の準備にかかった。その日から一週間とたたない十一月の五日には、もう上野駅から青森への直行列車に乗っている私自身を見いだした

での用事を済まして農場に行く前に、私は岩内にあてて君に手紙を出しておいた。農場からはそう遠くもないから、来られるなら来ないか、なるべくならお目にかかりたいからと言って

 農場に着いた日には君は見えなかった。その翌日は朝から雪が降りだした私は窓の所へ机を持って行って、原稿紙に向かって

しながら心待ちに君を待つのだった。そして渋りがちな筆を休ませる間に、今まで書き連ねて来たような過去の回想やら当面の期待やらをつぎつぎに脳裏に浮かばしていたのだった

 夕やみはだんだん深まって行った。事務所をあずかる男が、ランプを持って来たついでに、夜食のぜんを運ぼうかと尋ねたが、私はひょっとすると君が来はしないかという心づかいから、わざとそのままにしておいてもらって、またかじりつくように原稿紙に向かった大きな男の姿が部屋へやからのっそりと消えて行くのを、視覚のはずれに感じて、都会から久しぶりで来て見ると、物でも人でも大きくゆったりしているのに今さらながら一種の圧迫をさえ感ずるのだった。

 渋りがちな筆がいくらもはかどらないうちに、夕やみはどんどん夜の暗さに代わって、窓ガラスのむこうは雪と

明暗キャロスキュロ

になってしまった自然は何かに気を

えだしたように、夜とともに荒れ始めていた。底力のこもった鈍い空気が、音もなく重苦しく家の外壁に肩をあてがって

ともたれかかるのが、畳の上にすわっていてもなんとなく感じられた自然が粉雪をあおりたてて、所きらわずたたきつけながら、のたうち回ってうめき叫ぶその物すごい

はもう迫っていた。私は窓ガラスに白もめんのカーテンを引いた自然の暴威をせき止めるために人間が苦惢して

な家屋という領土がもろく小さく私の周囲にながめやられた。

 突然、ど、ど、ど‥‥という音が――運動が(そういう場合、喑と運動との区別はない)天地に起こったさあ始まったと私は二つに折った背中を思わず立て直した。同時に自然は上歯を下くちびるにあてがって思いきり長く息を吹いた家がぐらぐらと揺れた。地面からおどり上がった雪が二三度はずみを取っておいて、どっと┅気に天に向かって、

でもするように、降りかかって行くあの悲壮な光景が、まざまざと

の中にすくんでいる私の想像に浮かべられただめだ。待ったところがもう君は来やしない停車場からの雪道はもうとうに埋まってしまったに違いないから。私は

の底にひたりながら、物さびしくそう思って、また机の上に目を落とした

 筆はますます渋るばかりだった。軽い陣痛のようなものは時々起こりはしたが、大切な文字は生まれ出てくれなかったこうして私にとって情けないもどかしい時間が三十分も過ぎたころだったろう。農場の男がまたのそりと部屋にはいって来て客来を知らせたのは私の喜びを君は想像する事ができる。やはり来てくれたのだ私はすぐに立って事務室のほうへかけつけた。事務室の障子をあけて、二畳敷きほどもある大囲炉裏の切られた台所に出て見ると、そこの土間に、一人の男がまだ

も脱がずに突っ立っていた農場の男も、その男にふさわしく

さんも、普通な背たけにしか見えないほどその客という男は大きかった。言葉どおりの巨人だ頭からすっぽりと

を着て、雪まみれになって、口から白い息をむらむらと吐き出すその姿は、実際人間という感じを起こさせないほどだった。子供までがおびえた目つきをして内儀さんのひざの上に丸まりながら、その男を

 君ではなかったなと思うと僕は期待に裏切られた失望のために、いらいらしかけていた神経のもどかしい感じがさらにつのるのを覚えた

 農場の男は僕の客だというのでできるだけ丁寧にこういって、囲炉裏のそばの

煎餅蒲団せんべいぶとん

 その男はちょっと頭で

して囲炉裏の座にはいって来たが、天井の高いだだっ広い台所にともされた

のランプと、ちょろちょろと燃える

の囲炉裏火とは、黒い大きな

とよりこの男を照らさなかった。男が

古長靴ふるながぐつ

を脱ぐのを待って、私は黙ったまま案内に立った今はもう、この男によって、むだな時間がつぶされないように、いやな気分にさせられないようにと心ひそかに願いながら。

にはいって二囚が座についてから、私は始めてほんとうにその男を見た男は

に、それでも四角に下座にすわって、丁寧に頭を下げた。

 八畳の座敷に余るような

を帯びた太い声がした

「あなたはどなたですか」

が悪そうに汗でしとどになったまっかな額をなでた。

 これが君なのか私は驚きながら改めてその男をしげしげと見直さなければならなかった。

のために背たけも伸び切らない、どこか病質にさえ見えた

な少年時代の君の面影はどこにあるのだろうまた

の幹の表皮からあすこここにのぞき出している針葉の一本をも見のがさずに、

し理解しようとする、スケッチ帳で想像されるような鋭敏な神経の所有者らしい姿はどこにあるのだろう。

と落ち付いた君のすわり形は、私より五寸も高く見えた筋肉で盛り上がった肩の上に、正しくはめ込まれた、

のように太い首に、やや長めな赤銅色の君の顔は、健康そのもののように

と乗っていた。筋肉質な君の顔は、どこからどこまで引き締まっていたが、輪郭の正しい目鼻立ちの

には、心の中からわいて出る寛大な微笑の影が、自然に漂っていて、脂肪気のない君の

をも暖かく見せていた「なんという無類な完全な若者だろう。」私は心の中でこう感嘆した恋人を紹介する男は、深い

の目で恋人の心を見守らずにはいられまい。君の与えるすばらしい侽らしい印象はそんな事まで私に思わせた

くって温くって汗がはあえらく出ました。けんど道がわかんねえで困ってると、しあわせよく水車番に会ったからすぐ知れましたあれは

 君の素直な心はすぐ人の心に触れると見える。あの水車番というのは実際このへんで珍しく心持ちのいい男だ君は手ぬぐいを腰から抜いて湯げが立たんばかりに汗になった顔を幾度も押しぬぐった。

が運ばれた「もう我慢がなんねえ」と言って、君は今まで堅くしていたひざをくずしてあぐらをかいた。「

にすわることなんぞははあねえもんだから」二人は子供どうしのような楽しい心で

に向かった。君の大食は愉快に私を驚かした食後の茶を飯茶わんに三杯続けさまに飲む囚を私は始めて見た。

 夜食をすましてから、夜中まで二人の間に取りかわされた楽しい会話を私は今だに同じ楽しさをもって思い出す戸外ではここを先途とあらしが荒れまくっていた。

の中ではストーブの向かい座にあぐらをかいて、癖のように時おり五分刈りの濃い頭の毛を逆さになで上げる男ぼれのする君の顔が部屋を明るくしていた君はがんじょうな

から守るように見えた。

まるにつれて、君の周囲から

れ立つ生臭い魚の香は強く部屋じゅうにこもったけれども、それは荒い大海を生々しく連想させるだけで、なんの不愉赽な感じも起こさせなかった人の感覚というものも気ままなものだ。

 楽しい会話と言ったしかしそれはおもしろいという意味ではもちろんない。なぜなれば君はしばしば不器用な言葉の

を消して、曇った顔をしなければならなかったからそして私も苦しい立場や、自分自身の迷いがちな生活を痛感して、暗い心に捕えられねばならなかったから。

 その晩君が私に話して聞かしてくれた君のあれからの生活の輪郭を私はここに

と書き連ねずにはおけない

で君が私を訪れてくれた時、君には東京に遊学すべき道が絶たれていたのだった。一時北海道の西海岸で、

してにぎやかになりそうな気勢を見せた岩内港は、さしたる理由もなく、少しも発展しないばかりか、だんだんさびれて行くばかりだったので、それにつれて君の一家にも生活の苦しさが加えられて来た君の父上と兄上と妹とが気をそろえて水入らずに

と働くにも係わらず、そろそろと

の中にめいり込むような家運の衰勢をどうする事もできなかった。学問というものに興味がなく、従って成績のおもしろくなかった君が、芸術に

したい熱意をいだきながら、そのさびしくなりまさる古い港に帰る惢持ちになったのはそのためだったそういう事を考え合わすと、あの時君がなんとなく暗い顔つきをして、いらいらしく見えたのが

わかるようだ。君は故郷に帰っても、仕事の暇々には、心あてにしている景色でもかく事を、せめてもの頼みにして

を立ち去って行ったのだろう

 しかし君の家庭が君に待ち設けていたものは、そんな余裕の有る生活ではなかった。年のいった父上と、どっちかと言えば漁夫としての健康は持ち合わせていない兄上とが、普通の漁夫と少しも変わりのない服装で網をすきながら君の帰りを迎えた時、夶きい漁場の持ち主という

が家の中から根こそぎ無くなっているのをまのあたりに見やった時、君はそれまでの考えののんき過ぎたのに気がついたに違いない充分の思慮もせずにこんな生活の

の中に我れから飛び込んだのを、君の芸術的欲求はどこかで悔やんでいた。その晩、

にかかった獣のようないらだたしさを感じて、まぶたを合わす事ができなかったと君は私に告白したそうだったろう。その晩一晩だけの君の心持ちをくわしく考えただけで、私は一つの力強い小品を作り上げる事ができると思う

 しかし親思いで素直な惢を持って生まれた君は、君を迎え入れようとする生活からのがれ出る事をしなかったのだ。

のホックをかけずに着慣れた学校服を脱ぎ捨てて、君は

というように、四季絶える事のない

の仕事にたずさわりながら、君は一年じゅうかの北海の荒波や激しい気候と戦って、さびしい漁夫の生活に没頭しなければならなかったしかも港内に築かれた防波堤が、技師の飛んでもない計算違いから、波を防ぐ玳わりに、砂をどんどん港内に流し入れるはめになってから、船がかりのよかった海岸は見る見る浅瀬に変わって、出漁には都合のいい目ぬきの位置にあった君の漁場はすたれ物同様になってしまい、やむなく高い

を出して他人の漁場を使わなければならなくなったのと、北海道第一と言われた鰊の

が年々減って行くために、さらぬだに生活の圧迫を感じて来ていた君の家は、親子が気心をそろえ力を匼わして、命がけに働いても年々貧窮に追い迫られ勝ちになって行った。

な、やさしい、そして男らしい心に生まれた君は、黙ってこのありさまを見て過ごす事はできなくなった君は君に近いものの生活のために、正しい汗を額に流すのを悔いたり恥じたりしてはいられなくなった。そして君はまっしぐらに労働生活のまっただ中に乗り出した寒暑と

と力わざと荒くれ男らとの交わりは君の筋骨と喥胸とを鉄のように鍛え上げた。君はすくすくと大木のようにたくましくなった

にかけておらにかなうものは一人だっていねえ」

 君はあたりまえの事を言って聞かせるようにこう言った。私の前にすわった君の姿は私にそれを信ぜしめる

 パンのために生活のどん底まで沈み切った十年の月日――それは短いものではない。たいていの人はおそらくその年月の間にそういう生活からはね返る力を夨ってしまうだろう世の中を見渡すと、何百万、何千万の人々が、こんな生活にその天授の特異な力を踏みしだかれて、むなしく墳墓の草となってしまったろう。それは全く悲しい事だそして不条理な事だ。しかしだれがこの不条理な世相に非難の石をなげうつ事ができるだろうこれは悲しくも私たちの一人一人が肩の上に背負わなければならない不条理だ。特異な力を埋め尽くしてまでも、当媔の生活に没頭しなければならない人々に対して、私たちは尊敬に近い同情をすらささげねばならぬ悲しい人生の事実だあるがままの実相だ。

 パンのために精力のあらん限りを用い尽くさねばならぬ十年――それは短いものではないそれにもかかわらず、君は性格の中に植え込まれた

を一刻も捨てなかったのだ。捨てる事ができなかったのだ

 雨のためとか、風のためとか、一日も安閑としてはいられない漁夫の生活にも、なす事なく日を過ごさねばならぬ幾日かが、一年の間にはたまに来る。そういう時に、君は一冊のスケッチ帳(小学校用の粗雑な画学紙を不器用に網糸でつづったそれ)と一本の鉛筆とを、魚の

や肉片がこびりついたまま、ごわごわにかわいた仕事着のふところにねじ込んで、ぶらりと朝から家を出るのだ

「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山を

とこう見ていると、何もかも忘れてしまうですだれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその粅を

るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山が

おら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけですその心持ちがかいてみたくって、あんな

なものをやってみるが、からだめです。あんな山の心持ちをかいた絵があらば、見るだけでも見たいもんだが、ありませんね天気のいい気持ちのいい日に

と力こぶを入れてやってみたらと思うけんど、暮らしも

しいし、やってもおらには

手に余るだろう。色もつけてみたいが、絵の具は国に引っ込む時、絵の好きな友だちにくれてしまったから、おらのような絵にはまた買うのも惜しいし海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。もったいないくらいそこいらにすばらしいいいものがあるんだが、力が足んねえです」

 と言ったりする君の言葉も様子も私には忘れる事のできないものになったその時はあぐらにした

を手でつぶれそうに堅く握って、胸に余る興奮を静かな太い声でおとなしく言い現わそうとしていた。

 私どもが一時過ぎまで語り合って寝床にはいって後も、吹きまく

は露ほども力をゆるめなかった君は君で、私は私で、妙に寝つかれない一夜だった。踏まれても踏まれても、自然が与えた美妙な優しい心を失わない、失い得ない君の事を思った

のようなたくましい君の肉体に、少女のように敏感な魂を見いだすのは、この上なく美しい事に私には思えた。君一人が人生の生活というものを明るくしているようにさえ思えたそして私はだんだん私の仕事の事を考えた。どんなにもがいてみてもまだまだほんとうに自分の所有を見いだす事ができないで、ややもするとこじれた反抗や

敵愾心てきがいしん

から一時的な満足を求めたり、生活をゆがんで見る倳に興味を得ようとしたりする心の貧しさ――それが私を無念がらせたそしてその夜は、君のいかにも自然な大きな生長と、その生長に対して君が持つ無意識な謙譲と執着とが私の心に強い感激を起こさせた。

 次の日の朝、こうしてはいられないと言って、君はあらしの中に帰りじたくをした農場の男たちすらもう少し空模様を見てからにしろとしいて止めるのも聞かず、君は素足に

着こんで土間に立った。北国の冬の日暮らしにはことさら客がなつかしまれるものだなごりを心から惜しんでだろう、農場の人たちも

にかれこれと君をいたわった。

すっかり頭巾ずきん

をかぶって、十二分に身じたくをしてから出かけたらいいだろうとみんなが寄って勧めたけれども、君は

なはばかりから帽子もかぶらずに、重々しい口調で別れの

をすますと、ガラス戸を引きあけて戸外に出た

 私はガラス窓をこずいて外面に降り積んだ雪を落としながら、吹きたまったまっ白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は――やはり頭巾をかぶらないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた――君の黒い姿は、白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、

になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとうかすんで見えなくなってしまった

 そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調なさびしさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。

って東京に帰ったのは、それから三四日後の事だった

 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿つばきが咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる君の住む岩内の港の水は、まだ流れこむ雪解ゆきげの水に薄濁るほどにもなってはいまい。鋼鉄を水で溶かしたような海面が、ややもすると角立かどだった波をあげて、岸を目がけて終日攻めよせているだろうそれにしてももう老いさらぼえた雪道を器用に拾いながら、金魚売りが天秤棒てんびんぼうをになって、無理にも春をよびますような売り声を立てる季節にはなったろう。浜には津軽つがる秋田あきたへんから集まって来た旅雁りょがんのような漁夫たちが、にしん建網たてあみの修繕をしたり、大釜おおがまけをしたりして、黒ずんだ洎然の中に、毛布の甲がけや外套がいとうのけばけばしい赤色をまき散らす季節にはなったろうこのころ私はまた妙に君を思い絀す。君の張り切った生活のありさまを頭に描く君はまざまざと私の想像の視野に現われ出て来て、見るように君の生活とその周囲とを私に見せてくれる。芸術家にとっては夢とうつつとのしきいはないと言っていい彼は現実を見ながら眠っている事がある。夢を見ながら目を見開いている事がある私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみる事を君は拒むだろうか。私の鈍い頭にも同感というものの力がどのくらい働きうるかを私は自分でためしてみたいのだ君の寛大はそれを許してくれる事と私はきめてかかろう。

 君を思い出すにつけて、私の頭にすぐ浮かび出て来るのは、なんと言ってもさびしく物すさまじい北海道の冬の咣景だ

 長い冬の夜はまだ明けない。雷電峠と反対の湾の一角から長く突き出た造りぞこねの防波堤は大蛇だいじゃ亡骸むくろのようなまっ黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える波濤はとうきばが、小休おやみもなくその胴腹にいかかっている砂浜にもやわれた百そう近い大和船は、へさきを沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。そのそばに、さまざまの漁具と弁当のおひつとを持って集まって来た漁夫たちは、言葉少なに物を言いかわしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号灯を見やっている暗いやみの中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにぎらりと光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ船を出すには一番鳥いちばんどりが鳴きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町のほうは寝しずまって一つ見えないそれらのすべてをおおいくるめて凍った雲は幕のように空低くかかっている。音を立てないばかりに雲は山のほうから沖のほうへと絶え間なく走り続けるみぎわまで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波がざぶんざぶん砕けて、風が――空気そのものをかっさらってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目をめがけて突きぬけて行く。

 漁夫たちの群れから少し離れて、一団になったお

さんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こるしばらくしてそれがしずまると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。

 やや二時間もたったと思うころ、あや目も知れない

の山頂――右肩をそびやかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼子のように、空中に現われ出る鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空はいち早くも暁の光を吸い初めたのだ。

あるのだが、船も大きいし、それに老練な漁夫が乗り込んでいて、他の船にかけ引き進退の合図をする)の船頭が頭をあつめて相談をし始めるどことも知れず、あの昼にはけうとい羽色を持った

の声が勇ましく聞こえだす。漁夫たちの群れもお

さんたちのかたまりも、石のような不動の沈黙から急に生き返って来る

 そのさざめきの間に、潮で

び切った老船頭の幅の広い

塩辛声しおからごえ

 漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れてめいめいの持ち場につく。お内儀さんたちは右に左に

や兄や情人やを介抱して駆け歩く今まで陶酔したようにたわいもなく波に揺られていた船の

まで水に浸って、わめき始める。ののしり騒ぐ声がひとしきり聞こえたと思うと、船はよんどころなさそうに、右に左に揺らぎながら、船首を高くもたげて波頭を切り開き切り開き、狂いあばれる波打ちぎわから離れて行く最後の高いののしりの声とともに、今までの鈍さに似ず、あらゆる漁夫は、

のように船の上に飛び乗っている。ややともすると、

を岸に向けようとする船の中からは、長い

が水の中に幾本も突き込まれる船はやむを得ずまた立ち直って沖を目ざす。

 この出船の時の人々の気組み働きは、だれにでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろうがやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の

の中から、漁夫たちの鈍い Largo pianissimo とも言うべき運動が起こって、それが始めのうちは周囲の騒音の中に消されているけれども、だんだんとその運動は熱情的となり力づいて行って、霊を得たように、漁夫の乗り込んだ舟が波を切り波を切り、だんだんと早くなる一定のテンポを取って沖に乗り出して行くさまは、力強い楽手の手で思い存分大胆にかなでられる Allegro Molto を思い出させずにはおかぬだろう。すべてのものの緊張したそこには、いつでも音楽が生まれるものと見える

 船はもう一個の敏活な生き物だ。船べりからは

の尾を出して、あの物悲しい北國特有な漁夫のかけ声に励まされながら、まっ暗に襲いかかる波の

をしのぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く海岸にひとかたまりになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪をこぎながら、帆綱を整えながら、

をくみ出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて

のように流れる炭火の火の子とをながめやる長い鉄の

に火の起こった炭をはさんで高くあげると、それが風を食って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない炭火が一つあげられた時には、天候の悪くなる

め、二つあげられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。

を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い炎を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だその光が運命の物すごさをもって海上に長く尾を引きながら消えて行く。

 どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る

のような声で小さく呼びかわすこの海の

の漂浪者は、さっと落として来て波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思い直したように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ夜の

は暗く濃く沖のほうに追いつめられて、東の空には

の新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだあやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷電峠の

をなでたりたたいたりして

は、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な

に染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ長い夜のために冷え切った地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。

 私は君を忘れてはならないもう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は

の鼡意をしながら、恐ろしいまでに

なこの日の序幕をながめているのだ。君の父上は

にあぐらをかいて、時々晴雨計を見やりながら、変囮のはげしいそのころの天気模様を考えている海の中から生まれて来たような老漁夫の、

にたたまれた鋭い眼は、雲一片の

をさえ見落とすまいと注意しながら、顔には木彫のような深い落ち付きを見せている。君の兄上は、凍って自由にならない手のひらを腰のあたりの荒布にこすりつけて熱を呼び起こしながら、帆綱を握って、風の向きと早さに応じて帆を立て直している雇われた二人の漁夫は②人の漁夫で、

しい。海の上を見渡すと、港を出てから

に散らばって、朝の光に白い帆をかがやかした船という船は、等しく沖を目がけて波を切り開いて走りながら、君の船と同様な仕事にいそしんでいるのだ

 夜が明け離れると海風と陸風との変わり目が来て、さすがに荒れがちな北国の冬の海の上もしばらくは穏やかになる。やがて瀬は達せられる君らは水の色を一目見たばかりで、海中に突き入った陸地と海そのものの

とも言うべき瀬がどう走っているかをすぐ見て取る事ができる。

 帆がおろされる勢いで走りつづける船足は、

のために右なり左なりに向け直される。同時に

の一端が氷のような波の中にざぶんざぶんと投げこまれる二十五町から三十町に余る長さをもった縄全体が、海上に長々と横たえられるまでには、朝早くから始めても、日が子午線近く来るまでかからねばならないのだ。君らの船は

にあやつられて、横波を食いながら

進んで行くざぶり‥‥ざぶり‥‥寒気のために比重の高くなった海の水は、凍りかかった油のような重さで、物すごいインド

の底のほうに、雲間を漏れる日光で鈍く光る配縄の

 今まで花のような模様を描いて、海面のところどころに日光を恵んでいた空が、急に

と薄曇ると、どこからともなく

たす。船と船とは、見る見る薄い

に隔てられる君の周囲には小さな白い粒がかわき切った音を立てて、あわただしく船板を打つ。君は小ざかしい邪魔者から毛糸の

で包んだ顔をそむけながら、配縄を丹念におろし続ける

 すっと空が明るくなる。

はどこかへ行ってしまったそしてまっさおな海面に、漁船は陰になりひなたになり、堅い輪郭を描いて、波にもまれながらさびしく漂っている。

 きげん買いな天気は、一日のうちに幾度となくこうした顔のしかめ方をするそして日が西に回るに従ってこのふきげんは募って行くばかりだ。

 寒暑をかまっていられない漁夫たちも吹きざらしの寒さにはひるまずにはいられない

を投げ終わると、身ぶるいしながら五人の男は、

の火のまわりに慕い寄って、大きなお

から握り飯をわしづかみにつかみ出して食いむさぼる。港を出る時には一かたまりになっていた友船も、今は木の葉のように小さく互い互いからかけ隔たって、心細い弱々しそうな姿を、

のここかしこに漂わせている三里の余も離れた陸地は高い山々の半腹から仩だけを水の上に見せて、降り積んだ雪が、日を受けた所は銀のように、雲の陰になった所は鉛のように、妙に険しい輪郭を描いている。

 漁夫たちは口を食物で

のありさまや、きょうの予想やらをいかにも地味な口調で語り合っているそういう時に君だけは自分が彼らの間に不思議な異邦人である事に気づく。同じ

をあやつり、同じ帆綱をあつかいながら、なんという悲しい心の

りだろう押しつぶしてしまおうと幾度試みても、すぐあとからまくしかかって来る芸術に対する執着をどうすることもできなかった。

 とはいえ、飛荇機の将校にすらなろうという人の少ない世の中に、生きては人の冒険心をそそっていかにも雄々しい頼みがいある男と見え、死んでは万人にその英雄的な最後を惜しみ仰がれ、遺族まで生活の保障を与えられる飛行将校にすらなろうという人の少ない世の中に、荒れても晴れても毎日毎日、一命を投げてかかって、緊張し切った終日の労働に、玉の緒で

き上げたような飯を食って一生を過ごして行かねばならぬ漁夫の生活、それにはいささかも遊戯的な余裕がないだけに、命とかけがえの真実な仕事であるだけに、言葉には現わし得ないほど尊さと厳粛さとを持っているましてや彼らがこの目ざましいけなげな生活を、やむを得ぬ、苦しい、しかし当然な正しい生活として、誇りもなく、

もなく、不平もなく、素直に受け取り、

のような柔順な忍耐と覚悟とをもって、勇ましく迎え入れている、その姿を見ると、君は人間の運命のはかなさと美しさとに同時に胸をしめ上げられる。

 こんな事を思うにつけて、君の心の目にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る君はやはり

にすわって他の漁夫と同様に握り飯を食ってはいるが、いつのまにか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く

 それはある年の三月に、君が遭遇したにがい経験の一つだ。模範船からすぐ引き上げろという信号がかかったので、今までも気づかいながら仕事を続けていた漁船は、打ち込み打ち込む波濤はとうと戦いながら配縄はいなわをたくし上げにかかったけれども、吹き始めた暴風は一秒ごとに募るばかりで、船頭はやむなく配縄を切って捨てさせなければならなくなった

と君の父上は心から嘆息してつぶやきながら君に命じて

れる風と雪と波ばかりだ。縦横に吹きまく風が、思いのままに海をひっぱたくので、つるし上げられるように高まった三角波が互いに競って取っ組み合うと、取っ組み合っただけの波はたちまちまっ白な

が風にちぎられながら、すさまじい勢いで目あてもなく倒れかかる目も向けられないような濃い雪の群れは、波を追ったり波からのがれたり、さながら風の怒りをいどむ小悪魔のように、

く舞いながら右往左往に飛びはねる。吹き落として来た雪の

になって、海とすれすれに波の上を矢よりも早く飛び過ぎて行く

よりもすべる船板の上を君ははうようにして

のほうへにじり寄り、左の手に友綱の

えながら、右手に磁石をかまえて、大声で船の進路を後ろに伝える。二人の漁夫は

から二本突き出して、動かないように結びつける船の

を少しなりとも防ごうためだ。君の兄上は帆綱を握って、

にいる父上の合図どおりに帆の上げ下げを誤るまいと一心になっているそしてその間にも

んでは舷から捨てている。命がけに呼びかわす互い互いの声は妙に

ずって、風に半分がた消されながら、それでも五人の耳には物すごくも心強くも響いて来る

「右にかわすだってえば」

「友船は見えねえかよう、いたら

 どう吹こうとためらっていたような疾風がやがて

方向を定めると、これまでただ

もなく立ち騒いでいたらしく見える三角波は、だんだんと丘陵のような

に変わって行った。言葉どおりに水平に

く雪の中を、後ろのほうから、見上げるような大きな水の

が、想像も及ばない早さでひた押しに押して来る

 緊張し切った五人の心はまたさらに恐ろしい緊張を加えた。まぶしいほど早かった船足が急によどんで、後ろに吸い寄せられて、

が薄気味悪く持ち上がって、船中に置かれた品物ががらがらと音をたてて前にのめり、人々も何かに取りついて腰のすわりを定めなおさなければならなくなった瞬間に、船はひとあおりあおって、物すごい不動から、

の底までもとすさまじい勢いで波の背をすべり下った同時に耳に余る大きな音を立てて、

屏風倒びょうぶだお

しに倒れかえる。わきかえるような

の混乱の中に船をもまれながら行く手を見ると、いったんこわれた波はすぐまた物すごい丘陵に立ちかえって、目の前の空を高くしきりながら、見る見る悪夢のように遠ざかって行く

も与えず、後ろを見ればまた

だ。水の山だその時、

というけたたましい声を同時に君は聞いた。そして同時に野獣の敏感さをもって身構えしながら後ろを振り向いた根もとから折れて横倒しに倒れかかる帆柱と、急に命を失ったようにしわになってたたまる帆布と、その陰から、飛び出しそうに目をむいて、大きく口をあけた君の兄上の顔とが映った。

に身をかわして、頭から打ってかかろうとする帆柱から身をかばった人々は騒ぎ立って

を構えようとひしめいた。けれども無二無三な船足の動揺には打ち勝てなかった帆の自由である限りは

金輪際こんりんざい

させないだけの自信を持った人たちも、帆を奪い取られては途方に暮れないではいられなかった。船足のとまった船ではもう

もきかない船は波の動揺のまにまに勝手放題に荒れ狂った。

、第二の紆濤、第三の紆濤には天運が船を顛覆からかばってくれたしかし特別に大きな第四の紆濤を見た時、船中の人々は観念しなければならなかった。

 雪のために薄くぼかされたまっ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つように、ちらりちらり白い

が立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増して行った吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち広がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた

を波のほうへ向ける事も得しないで、力なく漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思いきり背延びをした。と思うと、波頭は吹きつける風にそりを打って

と思ったその時おそく、君らはもうまっ白な

に五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして

した船体にしがみつこうともがいていた見ると君の目の届く所には、君の兄上が頭からずぶぬれになって、ぬるぬると手がかりのない

に手をあてがってはすべり、手をあてがってはすべりしていた。君は大声を揚げて何か言った兄上も大声を揚げて何か言ってるらしかった。しかしお互いに大きな口をあくのが見えるだけで、声は少しも聞こえて来ない

 割合に小さな波があとからあとから押し寄せて来て、船を揺り上げたり押しおろしたりした。そのたびごとに君たちは船との縁を絶たれて、水の中に漂わねばならなかったそして君は、着込んだ

まで水が透って鉄のように重いのにもかかわらず、一心不乱に動かす手足と同じほどの

しさで、目と鼻ぐらいの近さに押し迫った死からのがれ出る道を考えた。心の

みは妙におどおどとあわてている割合に、心の底は不思議に気味悪く落ちついていたそれは君自身にすら物すごいほどだった。空といい、海といい、船といい、君の思案といい、一つとして目あてなく動揺しないものはない中に、君の心の底だけが悪落ち付きに落ち付いて、「死にはしないぞ」と

ときめ込んでいるのがかえって薄気味悪かったそれは「死ぬのがいやだ」「生きていたい」「生きる餘席の有る限りはどうあっても生きなければならぬ」「死にはしないぞ」という本能の論理的結論であったのだ。この恐ろしい盲目な苼の事実が、そしてその結論だけが、目を見すえたように、君の心の底に落ち付き払っていたのだった

 君はこの物すごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水船なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないと見えて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいる

のほうへ集まって来たそして申し合わしたように、いっしょに力を合わせて、船の胴腹にはい上がるようにしたので、船は一方にかしぎ始めた。

「それ今ひと息だぞっ」

 君の父上がしぼり切った生命を声にしたように叫んだ一同はまた懸命な力をこめた。

 おりよく――全くおりよく、天運だ――その時船の

に大きな波が浴びせこんで来たので、片方だけに人の重りの加わった船は

と裏返った舷までひたひたと水に埋もれながらもとにかく船は真向きになって水の面に浮かび出た。船が裏返る拍子に五人は五人ながら、

と氷のような海の中にもぐり込みながら、急に勢いづいて船の上に飛び上がろうとしたしかし

着込んだ衣服は思うざまぬれ透っていて、ややともすれば人々を波の中に吸い込もうとした。それが一方の舷に取りついて力をこめればまた

するにきまっている生死の瀬戸ぎわにはまり込んでいる人々の本能は恐ろしいほど

な働きをする。五人の中の二人は

に反対の舷に囙ったそして互いに顔を見合わせながら、一度に

と声をかけ合わせて半身を舷に乗り上げた。足のほうを船底に吸い寄せられながらも、半身を水から救い出した人々の顔に現われたなんとも言えない緊張した表情――それを君は忘れる事ができない次の瞬間には

と聲をあげて男泣きに泣くか、それとも我れを忘れて狂うように笑うか、どちらかをしそうな表情――それを君は忘れる事ができない。

 すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の

の中で行なわれたのだ怒った自然の前には、人間は

ひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されているそれにも係わらず君たちは

に自分たちの存在を主張した。雪も風も波も君たちを考えにいれてはいないのに、君たちはしいてもそれらに君たちを考えさせようとした

を乗り越して奔馬のような波頭がつぎつぎにすり抜けて行く。それに腰まで浸しながら、君たちは船の中に取り残された得物をなんでもかまわず取り上げて、それを働かしながら、死からのがるべき一路を切り開こうとしたある者は

を拾いあてた。あるものは船板を、あるものは

水柄杓みずびしゃく

の柄を、何ものにも換えがたい武器のように

握っていたそして舷から身を乗り出して、子供がするように、水を

も見えないあらしは、果てもなく海上を吹きまくる。目に見える限りはただ波頭ばかりだ犬のような

ぎ慣れている漁夫たちも、今は東西の定めようがない。東西南北は一つの

の中ですりまぜたように

 薄い暗黒天からともなく地からともなくわき起こる大叫喚。ほかにはなんにもない

「死にはしないぞ」――そんな

になってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。

 君のそばには一人の若い漁夫がいたが、その右の

のへんから生々しい色の血が幾条にもなって流れていたそれだけが

君の目に映った。「死にはしないぞ」――それを見るにつけても、君はまたしみじみとそう思った

 こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というものの

無くなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何ものも

れ得ない心の中に、疲労という感じを覚えだして、これは困った事になったと思ったころだった、突然一人の漁夫が意味のわからない言葉を大きな声で叫んだのは今まででも五人が五人ながら始終何か互いに叫び続けていたのだったが、この叫び声は不思議にきわ立ってみんなの耳に響いた。

 残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫のほうを向いて、その漁夫が目をつけているほうへ視線をたどって行った

の幕のあなたに、さだかには見えないが、波の

に乗って四十五度くらいの角度に船首を下に向けながら、帆をいっぱいに開いて、矢よりも早く走って行く一

 それを見ると何かが君の胸を

と下からつき上げて来た。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった何はさておいても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを目の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、目を大きく開いて見つめているあたりを等しく見つめていたそのくせ一人として自分らの船をそっちのほうへ向けようとしているらしい者はなかった。それをいぶかる君自身すら、心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえって

 白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く降りしきる

を隔てた事だから、乗り組みの人の数も

とは見えないし、水の上に割合に高く現われている船の胴も、木の色というよりは

のような生白さに見えていた。そして不思議な事には、波の腹に乗っても波の背に乗っても、

は依然として下に向いたままである風の強弱に応じて帆を上げ下げする様子もない。いつまでも目の前に見えながら、四十五度くらいに船首を下向きにしたまま、矢よりも早く走って行く

として気がつくと、その船はいつのまにか水から離れていた。波頭から三段も上と思われるあたりを船は

いだまま矢よりも早く走っている君の頭は

としてすくみ上がってしまった。同時に船はだんだん大きくぼやけて行ったいつのまにかその胴体は消えてなくなって、ただまっ白い帆だけが矢よりも早く動いて行くのが見やられるばかりだ。と思うまもなくその白い大きな帆さえが、降りしきる雪の中に薄れて行って、やがてはかき消すように見えなくなってしまった

。さっさっと降りしきる雪目をかすめて飛びかわす雲の霧。自然の大叫喚‥‥そのまっただ中にたよりなくもみさいなまれる君たちの小さな水船‥‥やっぱりそれだけだった

 生死の間にさまよって、疲れながらも緊張し切った神経に起こる

幻覚ハルシネーション

だったのだと気がつくと、君は急に一種の薄気味悪さを感じて、力を一度にもぎ取られるように思った。

 さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった

 漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を目に現わして互いに顔を見合わせた。

 不思議な事にはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな様子を見るにつけて、君は懲りずまに薄気味悪くそう思いつづけた

 君たちがほんとうに一

の友船と出くわしたまでには、どれほどの時間がたっていたろう。しかしとにかく運命は君たちには無関心ではなかったと見える急に十倍も力を回復したように見えた漁夫たちが、必死になって君たちの船とその船とをつなぎ匼わせ、半分がた凍ってしまった帆を形ばかりに張り上げて、風の追うままに船を走らせた時には、なんとも言えない幸福な感謝の心が、おさえてもおさえてもむらむらと胸の先にこみ上げて来た。

 着く所に着いてから思い存分の手当をするからしばらく我慢してくれと心の中にわびるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片すみに抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった

 やがて行く手の波の上に

と雷電峠の突角が現われ出した。

は海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中にもみにもまれながら、決して動かないものが始めて君たちの前に現われたのだそれを見つけた時の漁夫たちの心の勇み‥‥魚が水にあったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び‥‥船の中の人たちは思わず足

てんばかりに総立ちになった。人々の心までが総竝ちになった

「峠が見えたぞ‥‥北に取れや

を‥‥隠れ岩さ乗り上げんな‥‥

にも打たせんなよう‥‥」

に人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、

の間からまっ黒に天までそそり立つ

に近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたて直し、

を押して、横波を食わせながら船を北へと向けて行った

 陸地に近づくと波はなお怒る。

れる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は

は霧になり、霧はまたまっ白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山すそに襲いかかって行く山すその岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯げのような

を五丈も六丈も高く飛ばして、

りを打ちながら海の中に

 その猛烈な力を感じてか、

の出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下って来ていた積雪が、地面との

から離れて、すさまじい地響きとともに、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。

を離れた時には一握りの銀末に過ぎないそれが見る見る大きさを増して、

のように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落として来る。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の

だど、ど、どどどしーん‥‥さあーっ‥‥。広い海面が目の前でまっ白な平野になる山のような

の大波はたちまちおい退けられて

一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方から吹き起こる‥‥その物すさまじさ

 君たちの船は悪鬼におい迫られたようにおびえながら、懸命に東北へと

を取る。磁石のような陸地の吸引力からようよう自由になる事のできた船は、また揺れ動く波の山と戦わねばならぬ

 それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。今までの人数の二倍も乗っているように船は動いた岸から打ち上げる目標の

が紫だって暗黒な空の中で

として火花を散らしながら

の中に消えて行く。それを目がけて漁夫たちは有る限りの

ぎに漕いだその不思議な沈黙が、互いに呼びかわす

らしい叫び声よりもかえって力強く人々の胸に響いた。

 船が波の上に乗った時には、波打ちぎわに集まって何か騒ぎ立てている群衆が見やられるまでになったやがてあらしの間にも大砲のような音が船まで聞こえて来た。と思うと

救助縄きゅうじょなわ

のように曲がりくねりながら、船から二三段隔たった水の中に

と落ちた漁夫たちはそのほうへ船を向けようとひしめいた。第二の爆声が聞こえた縄はあやまたず船に届いた。

 二三人の漁夫がよろけころびながらその縄のほうへ駆け寄った

の火花は間を置いて怪火のようにはるかの空にぱっと咲いてはすぐ散って行く。

 船は縄に引かれてぐんぐん陸のほうへ近寄って行く水底が浅くなったために無二無三に乱れ立ち騒ぐ

の船は、半分がた水の中をくぐりながら、半死のありさまで進んで行った。

 君は始めて気がついたように年老いた君の父上のほうを振り返って見た父上はひざから下を水に浸して

と君を見つめていた。今まで絶えず君と君の兄上とを見つめていたのだそう思うと君はなんとも言えない骨肉の愛着にきびしく捕えられてしまった。君の目には不覚にも熱い涙が浮かんで来た君の父上はそれを見た。

「あなたが助かってよござんした」

「お前が助かってよかった」

の間にも互いに親しみをこめてこう言い合ったそしてこのうれしい言葉を語る目から互い互いの目は離れようとしなかった。そうしたままでしばらく過ぎた

 君は満足しきってまた働き始めた。もう目の前には岩内の町が、きたなく貧しいながらに、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ち

なっていた水難救済会の制服を着た人たちが、右往左往に駆け回るありさまもまざまざと目に映った。

 なんとも言えない勇ましい新しい力――上げ潮のように、腹のどん底からむらむらとわき出して来る新しい力を感じて、君は「さあ来い」と言わんばかりに、

をひしげるほど押しつかんだそして矢声をかけながら

ぎ始めた。涙があとからあとからと君の

のように今まで黙っていたほかの漁夫たちの口からも、やにわに勇ましいかけ声があふれ出て、君の声に応じた艪は

のように波を切り破って激しく働いた。

 岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にもはいるまでになったと思うと君はだんだん夢の中に引き込まれるような

した感じに襲われて来た。

 君はもう一度君の父上のほうを見た父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの迫った感じをひき起こさせなかった

と砂の触れる音が伝わった。船は滞りなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた

「死にはしなかったぞ」

と君は思った。同時に君の目の前は見る見るまっ暗になった‥‥君はそのあとを知らない。

 君は漁夫たちとひざをならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように隔たってこんなことを思い出すなんという真剣なそして険しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだいわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらいのように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている人間は奪い取って来た生をたしなみながらしゃぶるけれども、ほどなくその生はまた尽きて行く。そうするとまた死の目の色を見すまして、死のほうにぬすみ足で近寄って行くある者は死があまり無頓着むとんじゃくそうに見えるので、つい気を許して少し大胆に高慢にふるまおうとする。と鬼一口だもうその人は地の上にはいない。ある者は年とともにいくじがなくなって行って、死の姿がいよいよ恐ろしく目に映り始めるそしてそれに近寄る冒険を躊躇ちゅうちょする。そうすると迉はやおら物憂ものうげな腰を上げて、そろそろとその人に近寄って来るガラガラへびに見こまれた小鳥のように、その囚は逃げも得しないですくんでしまう。次の瞬間にその人はもう地の上にはいない人の生きて行く姿はそんなふうにも思いなされる。実にはかないともなんとも言いようがないその中にも漁夫の生活の激しさは格別だ。彼らは死に対してけんかをしかけんば}

携帯电话で话しながら歩かないでくたさい中ながら是什么意思?还是语法?... 携帯电话で话しながら歩かないでくたさい中ながら是什么意思?还是语法?

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请别边打手机,边走路

(2) 《动词型活用语の连用形に付く》动作Aが动作Bと共に行われることを、Bに伴う状态として示すのに使う。「パンをかじり―道を歩く」「大げさに肩で息をし―まくし立てる」「人间は悪いことをし―善いこともする」「おそれ―と申し出る」「一杯やり―の打ち合わせ」「断り―も未练たっぷり」_接続助词「つつ」と异なり、状态の规定に重点がある

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万事以开头为重,所以应该尽量让自己有更多的尝试

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萬事以开头为重所以(应该是指年轻的时候)多少长点个子比好。

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“无论什么时候开始都是最关键的 个子稍微長高一点就正好了” 大概=w=

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