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在标日上看到一道题,是说 お歩きください。我想问为什么不是お歩いてください。不是有てください的句型么?_百度知道
在标日上看到一道题,是说 お歩きください。我想问为什么不是お歩いてください。不是有てください的句型么?
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お歩きください
歩いてください 稍微尊敬一点お歩いてください 是错误用法。换言之,用尊敬语的构成形式 お+动词连用形+ ください,就 不能用て
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谢谢,讲的很清楚,对我帮助很大!!
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您好是有てください的句型,意为轻微的命令而お歩きください是敬语,有抬高他人的含义、在此为请您走起来用法为ます型+ください若对您有用还望您及时采纳O(∩_∩)O谢谢
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出门在外也不愁鲁迅译有岛武郎《与幼小者》(小さき者へ)
  小ちい&さ
き&者もの&へ
                         有 島ありしま 武 郎たけお
 お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡くりひろげて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映うつるか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤わらい憐あわれんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為ためにそうあらんことを祈っている。お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ。然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固がんこなのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く。
 お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い。この間ある雑誌社が「私の母」という小さな感想をかけといって来た時、私は何んの気もなく、「自分の幸福は母が始めから一人で今も生きている事だ」と書いてのけた。そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。私の心は悪事でも働いたように痛かった。しかも事実は事実だ。私はその点で幸福だった。お前たちは不幸だ。恢復かいふくの途みちなく不幸だ。不幸なものたちよ。
 暁方あけがたの三時からゆるい陣痛が起り出して不安が家中に拡ひろがったのは今から思うと七年前の事だ。それは吹雪ふぶきも吹雪、ですら、滅多めったにはないひどい吹雪の日だった。市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子ガラスに吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重に遮さえぎって、夜の暗さがいつまでも部屋から退どかなかった。電燈の消えた薄暗い中で、白いものに包まれたお前たちの母上は、夢心地に呻うめき苦しんだ。私は一人の学生と一人の女中とに手伝われながら、火を起したり、湯を沸かしたり、使を走らせたりした。産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっと気息いきをついて安堵あんどしたが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、産婆や看護婦の顔に、私だけに見える気遣きづかいの色が見え出すと、私は全く慌あわててしまっていた。書斎に閉じ籠こもって結果を待っていられなくなった。私は産室に降りていって、産婦の両手をしっかり握る役目をした。陣痛が起る度毎たびごとに産婆は叱るように産婦を励まして、一分も早く産を終らせようとした。然し暫しばらくの苦痛の後に、産婦はすぐ又深い眠りに落ちてしまった。鼾いびきさえかいて安々と何事も忘れたように見えた。産婆も、後から駈けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。医師は昏睡こんすいが来る度毎に何か非常の手段を用いようかと案じているらしかった。
 昼過きになると戸外の吹雪は段々鎮しずまっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯たわむれるまでになった。然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽おおい被かぶさった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々めいめいの不安に捕われてしまった。その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵ふちに臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々こんこんとして死の方へ眠って行った。
 丁度三時と思わしい時に――産気がついてから十二時間目に――夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起った。肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっと瞼まぶたを開いて、あてどもなく一所ひとところを睨にらみながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若し私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師と産婆は場所を忘れたように大きな声で産婦を励ました。
 ふと産婦の握力がゆるんだのを感じて私は顔を挙あげて見た。産婆の膝許ひざもとには血の気のない嬰児えいじが仰向けに横たえられていた。産婆は毬まりでもつくようにその胸をはげしく敲たたきながら、葡萄酒ぶどうしゅ葡萄酒といっていた。看護婦がそれを持って来た。産婆は顔と言葉とでその酒を盥たらいの中にあけろと命じた。激しい芳芬ほうふんと同時に盥の湯は血のような色に変った。嬰児はその中に浸された。暫くしてかすかな産声うぶごえが気息もつけない緊張の沈黙を破って細く響いた。
 大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那せつなに忽如こつじょとして現われ出たのだ。
 その時新たな母は私を見て弱々しくほほえんだ。私はそれを見ると何んという事なしに涙が眼がしらに滲にじみ出て来た。それを私はお前たちに何んといっていい現わすべきかを知らない。私の生命全体が涙を私の眼から搾しぼり出したとでもいえばいいのか知らん。その時から生活の諸相が総すべて眼の前で変ってしまった。
 お前たちの中うち最初にこの世の光を見たものは、このようにして世の光を見た。二番目も三番目も、生れように難易の差こそあれ、父と母とに与えた不思議な印象に変りはない。
 こうして若い夫婦はつぎつぎにお前たち三人の親となった。
 私はその頃心の中に色々な問題をあり余る程ほど持っていた。そして始終齷齪あくせくしながら何一つ自分を「満足」に近づけるような仕事をしていなかった。何事も独りで噛かみしめてみる私の性質として、表面うわべには十人並みな生活を生活していながら、私の心はややともすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を悔いた。ある時はお前たちの誕生を悪にくんだ。何故自分の生活の旗色をもっと鮮明にしない中に結婚なぞをしたか。妻のある為めに後ろに引きずって行かれねばならぬ重みの幾つかを、何故好んで腰につけたのか。何故二人の肉慾の結果を天からの賜物たまもののように思わねばならぬのか。家庭の建立こんりゅうに費す労力と精力とを自分は他に用うべきではなかったのか。
 私は自分の心の乱れからお前たちの母上を屡々しばしば泣かせたり淋しがらせたりした。またお前たちを没義道もぎどうに取りあつかった。お前達が少し執念しゅうねく泣いたりいがんだりする声を聞くと、私は何か残虐な事をしないではいられなかった。原稿紙にでも向っていた時に、お前たちの母上が、小さな家事上の相談を持って来たり、お前たちが泣き騒いだりしたりすると、私は思わず机をたたいて立上ったりした。そして後ではたまらない淋しさに襲われるのを知りぬいていながら、激しい言葉を遣つかったり、厳しい折檻せっかんをお前たちに加えたりした。
 然し運命が私の我儘わがままと無理解とを罰する時が来た。どうしてもお前達を子守こもりに任せておけないで、毎晩お前たち三人を自分の枕許や、左右に臥ふせらして、夜通し一人を寝かしつけたり、一人に牛乳を温めてあてがったり、一人に小用をさせたりして、碌々ろくろく熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度という恐ろしい熱を出してどっと床についた時の驚きもさる事ではあるが、診察に来てくれた二人の医師が口を揃そろえて、結核の徴候があるといった時には、私は唯ただ訳もなく青くなってしまった。検痰けんたんの結果は医師たちの鑑定を裏書きしてしまった。そして四つと三つと二つとになるお前たちを残して、十月末の淋しい秋の日に、母上は入院せねばならぬ体となってしまった。
 私は日中の仕事を終ると飛んで家に帰った。そしてお前達の一人か二人を連れて病院に急いだ。私がその町に住まい始めた頃働いていた克明な門徒の婆さんが病室の世話をしていた。その婆さんはお前たちの姿を見ると隠し隠し涙を拭いた。お前たちは母上を寝台の上に見つけると飛んでいってかじり付こうとした。結核症であるのをまだあかされていないお前たちの母上は、宝を抱きかかえるようにお前たちをその胸に集めようとした。私はいい加減にあしらってお前たちを寝台に近づけないようにしなければならなかった。忠義をしようとしながら、周囲の人から極端な誤解を受けて、それを弁解してならない事情に置かれた人の味あじわいそうな心持を幾度も味った。それでも私はもう怒る勇気はなかった。引きはなすようにしてお前たちを母上から遠ざけて帰路につく時には、大抵街燈の光が淡く道路を照していた。玄関を這入はいると雇人やといにんだけが留守していた。彼等は二三人もいる癖に、残しておいた赤坊のおしめを代えようともしなかった。気持ち悪げに泣き叫ぶ赤坊の股またの下はよくぐしょ濡ぬれになっていた。
 お前たちは不思議に他人になつかない子供たちだった。ようようお前たちを寝かしつけてから私はそっと書斎に這入って調べ物をした。体は疲れて頭は興奮していた。仕事をすまして寝付こうとする十一時前後になると、神経の過敏になったお前たちは、夢などを見ておびえながら眼をさますのだった。暁方になるとお前たちの一人は乳を求めて泣き出した。それにおこされると私の眼はもう朝まで閉じなかった。朝飯を食うと私は赤い眼をしながら、堅い心しんのようなものの出来た頭を抱えて仕事をする所に出懸けた。
 北国には冬が見る見る逼せまって来た。ある時病院を訪れると、お前たちの母上は寝台の上に起きかえって窓の外を眺めていたが、私の顔を見ると、早く退院がしたいといい出した。窓の外の楓かえでがあんなになったのを見ると心細いというのだ。なるほど入院したてには燃えるように枝を飾っていたその葉が一枚も残らず散りつくして、花壇の菊も霜に傷いためられて、萎しおれる時でもないのに萎れていた。私はこの寂しさを毎日見せておくだけでもいけないと思った。然し母上の本当の心持はそんな所にはなくって、お前たちから一刻も離れてはいられなくなっていたのだ。
 今日はいよいよ退院するという日は、霰あられの降る、寒い風のびゅうびゅうと吹く悪い日だったから、私は思い止らせようとして、仕事をすますとすぐ病院に行ってみた。然し病室はからっぽで、例の婆さんが、貰ったものやら、座蒲団やら、茶器やらを部屋の隅でごそごそと始末していた。急いで家に帰ってみると、お前たちはもう母上のまわりに集まって嬉しそうに騷いでいた。私はそれを見ると涙がこぼれた。
 知らない間に私たちは離れられないものになってしまっていたのだ。五人の親子はどんどん押寄せて来る寒さの前に、小さく固まって身を護まもろうとする雑草の株のように、互により添って暖みを分ち合おうとしていたのだ。然し北国の寒さは私たち五人の暖みでは間に合わない程寒かった。私は一人の病人と頑是がんぜないお前たちとを労いたわりながら旅雁りょがんのように南を指して遁のがれなければならなくなった。
 それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後あとにして旅に上ったのは。忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残なごりを惜しんだ。陰鬱な津軽海峡の海の色も後ろになった。東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。そんな事を書けば限りがない。ともかく私たちは幸さいわいに怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。
 今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。それは私にどれ程の力だったろう。お前たちの母上は程なくK海岸にささやかな貸別荘を借りて住む事になり、私たちは近所の旅館に宿を取って、そこから見舞いに通った。一時は病勢が非常に衰えたように見えた。お前たちと母上と私とは海岸の砂丘に行って日向ひなたぼっこをして楽しく二三時間を過ごすまでになった。
 どういう積りで運命がそんな小康を私たちに与えたのかそれは分らない。然し彼はどんな事があっても仕遂しとぐべき事を仕遂げずにはおかなかった。その年が暮れに迫った頃お前達の母上は仮初かりそめの風邪かぜからぐんぐん悪い方へ向いて行った。そしてお前たちの中の一人も突然原因の解らない高熱に侵された。その病気の事を私は母上に知らせるのに忍びなかった。病児は病児で私を暫くも手放そうとはしなかった。お前達の母上からは私の無沙汰を責めて来た。私は遂ついに倒れた。病児と枕を並べて、今まで経験した事のない高熱の為めに呻うめき苦しまねばならなかった。私の仕事? 私の仕事は私から千里も遠くに離れてしまった。それでも私はもう私を悔もうとはしなかった。お前たちの為めに最後まで戦おうとする熱意が病熱よりも高く私の胸の中で燃えているのみだった。
 正月早々悲劇の絶頂が到来した。お前たちの母上は自分の病気の真相を明あかされねばならぬ羽目になった。そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。真蒼まっさおな清々すがすがしい顔をして枕についたまま母上には冷たい覚悟を微笑に云わして静かに私を見た。そこには死に対する
Resignation
と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。それは物凄すごくさえあった。私は凄惨せいさんな感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。
 愈々いよいよH海岸の病院に入院する日が来た。お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍ほぞを堅めていた。二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着はれぎを着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。女ながらに気性の勝すぐれて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋たいようの泡あわの一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂に貯たくわえられているか、それは知らない。然しその熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。
 自動車のいる所に来ると、お前たちの中熱病の予後にある一人は、足の立たない為めに下女に背負われて、――一人はよちよちと歩いて、――一番末の子は母上を苦しめ過ぎるだろうという祖父母たちの心遣づかいから連れて来られなかった――母上を見送りに出て来ていた。お前たちの頑是ない驚きの眼は、大きな自動車にばかり向けられていた。お前たちの母上は淋しくそれを見やっていた。自動車が動き出すとお前達は女中に勧められて兵隊のように挙手の礼をした。母上は笑って軽く頭を下げていた。お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまうとは思わなかったろう。不幸なものたちよ。
 それからお前たちの母上が最後の気息を引きとるまでの一年と七箇月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。母上は死に対して最上の態度を取る為めに、お前たちに最大の愛を遺のこすために、私を加減なしに理解する為めに、私は母上を病魔から救う為めに、自分に迫る運命を男らしく肩に担にない上げるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない境遇の中に自分をはめ込むために、闘った。血まぶれになって闘ったといっていい。私も母上もお前たちも幾度弾丸を受け、刀創きずを受け、倒れ、起き上り、又倒れたろう。
 お前たちが六つと五つと四つになった年の八月の二日に死が殺到した。死が総すべてを圧倒した。そして死が総てを救った。
 お前たちの母上の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若もしこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を飜ひるがえさなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。又お前たちを見る事によって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。そうお前たちの母上は書いている。
「子を思う親の心は日の光世より世を照る大きさに似て」
 とも詠じている。
 母上が亡くなった時、お前たちは丁度信州の山の上にいた。若しお前たちの母上の臨終にあわせなかったら一生恨みに思うだろうとさえ書いてよこしてくれたお前たちの叔父上に強しいて頼んで、お前たちを山から帰らせなかった私をお前たちが残酷だと思う時があるかも知れない。今十一時半だ。この書き物を草している部屋の隣りにお前たちは枕を列ならべて寝ているのだ。お前たちはまだ小さい。お前たちが私の齢としになったら私のした事を、即すなわち母上のさせようとした事を価高く見る時が来るだろう。
 私はこの間にどんな道を通って来たろう。お前たちの母上の死によって、私は自分の生きて行くべき大道にさまよい出た。私は自分を愛護してその道を踏み迷わずに通って行けばいいのを知るようになった。私は嘗かつて一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。事実に於てお前たちの母上は私の為めに犠牲になってくれた。私のように持ち合わした力の使いようを知らなかった人間はない。私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍ろどんな、仕事の出来ない、憐れむべき男と見る外を知らなかった。私の小心と魯鈍と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった。それをお前たちの母上は成就じょうじゅしてくれた。私は自分の弱さに力を感じ始めた。私は仕事の出来ない所に仕事を見出いだした。大胆になれない所に大胆を見出した。鋭敏でない所に鋭敏を見出した。言葉を換えていえば、私は鋭敏に自分の魯鈍を見貫ぬき、大胆に自分の小心を認め、労役して自分の無能力を体験した。私はこの力を以もって己れを鞭むちうち他を生きる事が出来るように思う。お前たちが私の過去を眺めてみるような事があったら、私も無駄には生きなかったのを知って喜んでくれるだろう。
 雨などが降りくらして悒鬱ゆううつな気分が家の中に漲みなぎる日などに、どうかするとお前たちの一人が黙って私の書斎に這入はいって来る。そして一言パパといったぎりで、私の膝ひざによりかかったまましくしくと泣き出してしまう。ああ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求するのだ。不幸なものたちよ。お前たちが謂いわれもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。またお前たちが元気よく私に朝の挨拶あいさつをしてから、母上の写真の前に駈けて行って、「ママちゃん御機嫌ごきげんよう」と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐざと刮えぐり通す瞬間はない。私はその時、ぎょっとして無劫むごうの世界を眼前に見る。
 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦あきはてる程夥おびただしくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。それは確かにそうだ。然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ。
 何しろお前たちは見るに痛ましい人生の芽生めばえだ。泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。
 然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。私共の根はいくらかでも大地に延びたのだ。人生を生きる以上人生に深入りしないものは災わざわいである。
 同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の累わずらいからは自由だった。飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。食いたい食物は何んでも食う事が出来た。私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。お前たちの或るものはかすかながらU氏一家の模様を覚えているだろう。死んだ細君から結核を伝えられたU氏があの理智的な性情を有もちながら、天理教を信じて、その御祈祷きとうで病気を癒いやそうとしたその心持を考えると、私はたまらなくなる。薬がきくものか祈祷がきくものかそれは知らない。然しU氏は医者の薬が飲みたかったのだ。然しそれが出来なかったのだ。U氏は毎日下血しながら役所に通った。ハンケチを巻き通した喉のどからは皺嗄しわがれた声しか出なかった。働けば病気が重おもる事は知れきっていた。それを知りながらU氏は御祈祷を頼みにして、老母と二人の子供との生活を続けるために、勇ましく飽あくまで働いた。そして病気が重ってから、なけなしの金を出してして貰った古賀液の注射は、田舎の医師の不注意から静脈を外はずれて、激烈な熱を引起した。そしてU氏は無資産の老母と幼児とを後に残してその為めに斃たおれてしまった。その人たちは私たちの隣りに住んでいたのだ。何んという運命の皮肉だ。お前たちは母上の死を思い出すと共に、U氏を思い出すことを忘れてはならない。そしてこの恐ろしい溝みぞを埋める工夫をしなければならない。お前たちの母上の死はお前たちの愛をそこまで拡げさすに十分だと思うから私はいうのだ。
 十分人世は淋しい。私たちは唯そういって澄ましている事が出来るだろうか。お前達と私とは、血を味った獣のように、愛を味った。行こう、そして出来るだけ私たちの周囲を淋しさから救うために働こう。私はお前たちを愛した。そして永遠に愛する。それはお前たちから親としての報酬を受けるためにいうのではない。お前たちを愛する事を教えてくれたお前たちに私の要求するものは、ただ私の感謝を受取って貰いたいという事だけだ。お前たちが一人前に育ち上った時、私は死んでいるかも知れない。一生懸命に働いているかも知れない。老衰して物の役に立たないようになっているかも知れない。然し何いずれの場合にしろ、お前たちの助けなければならないものは私ではない。お前たちの若々しい力は既に下り坂に向おうとする私などに煩わずらわされていてはならない。斃れた親を喰くい尽して力を貯える獅子ししの子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。
 今時計は夜中を過ぎて一時十五分を指している。しんと静まった夜の沈黙の中にお前たちの平和な寝息だけが幽かすかにこの部屋に聞こえて来る。私の眼の前にはお前たちの叔母が母上にとて贈られた薔薇ばらの花が写真の前に置かれている。それにつけて思い出すのは私があの写真を撮とってやった時だ。その時お前たちの中に一番年たけたものが母上の胎に宿っていた。母上は自分でも分らない不思議な望みと恐れとで始終心をなやましていた。その頃の母上は殊に美しかった。希臘ギリシャの母の真似まねだといって、部屋の中にいい肖像を飾っていた。その中にはミネルバの像や、ゲーテや、クロムウェルや、ナイティンゲール女史やの肖像があった。その少女じみた野心をその時の私は軽い皮肉の心で観ていたが、今から思うとただ笑い捨ててしまうことはどうしても出来ない。私がお前たちの母上の写真を撮ってやろうといったら、思う存分化粧をして一番の晴着を着て、私の二階の書斎に這入って来た。私は寧むしろ驚いてその姿を眺めた。母上は淋しく笑って私にいった。産は女の出陣だ。いい子を生むか死ぬか、そのどっちかだ。だから死際しにぎわの装いをしたのだ。――その時も私は心なく笑ってしまった。然し、今はそれも笑ってはいられない。
 深夜の沈黙は私を厳粛にする。私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。その母上の愛は遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。よく眠れ。不可思議な時というものの作用にお前たちを打任してよく眠れ。そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって、寝床の中から跳り出して来い。私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何いかに失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。然しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。
 小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
 行け。勇んで。小さき者よ。&
有岛武郎《与幼小者》
&你们长大起来,养育到成了一个成人的时候——那时候,你们的爸爸可还活着,那固然是说不定的事——想来总会有展开了父亲的遗书来看的机会的罢。到那时候,这小小的一篇记载,也就出现在你们的眼前了。时光是骎骎的驰过去。为你们之父的我,那时怎样的映在你们的眼里,这是无从推测的。恐怕也如我在现在,嗤笑怜悯那过去一般,你们或者也要嗤笑怜悯我的陈腐的心情。我为你们计;惟愿其如此。你们倘不是毫不顾忌的将我做了踏台,超过了我,进到高级的远的地方去,那是错的。然而我想。有怎样的深爱你们的人,现在这世上,或曾在这世上的一个事实,于你们却永远是必要的。当你们看着这篇文章,悯笑着我的思想的未熟而且顽固之间,我以为,我们的爱,倘不温暖你们,慰藉,勉励你们,使你们的心中,尝着人生的可能性,是决不至于的。
所以我对着你们,写下这文章来。
你们在去年,永久的失掉了一个的,只有一个的亲娘。你们是生来不久,便被夺去了生命上最紧要的养分了。你们的人生,即此就暗淡。在近来,有一个杂志社来说,叫写一点“我的母亲”这一种小小的感想的时候,我毫不经心的写道,“自己的幸福,是在母亲从头便是一人,现在也活着,”便算事了。而我的万年笔将停未停之际,我便想起了你们。我的心仿佛做了什么恶事似的痛楚了。然而事实是事实。这一点,我是幸福的。你们是不幸的。是再没有恢复的路的不幸。啊啊,不幸的人们呵。
&从夜里三时起,开始了缓慢的阵痛,不安弥满了家中,从现在想起来,已经是七年前的事了。那是非常的大风雪,便在,也是不常遇到的极厉害的大风雪的一天。和市街离开的河边人的孤屋,要飞去似的动摇,吹来黏在窗玻璃上的粉雪,又重叠的遮住了本已包在绵云中间的阳光,那夜的黑暗,便什么时候,也不退出屋里去。在电灯已熄的薄暗里,裹着白的东西的你们的母亲,是昏瞀似的呻吟着苦痛。我教一个学生和一个使女帮着忙,生起火来,沸起水来,又派出人去。待产婆被雪下得白白的扑了进来的时候,合家的人便不由的都宽一口气,觉得安堵了,但到了午间,到了午后,还不见生产的模样,在产婆和看护妇的脸上,一看见只有我看见的担心的颜色,我便完全慌张了。不能躲在书斋里,专等候结果了。我走进产房去,当了紧紧的捏住产妇的两手的脚色。每起一回阵痛产婆便叱责似的督励着产妇,想给从速的完功。然而暂时的苦痛之后产妇又便入了熟睡,竟至于打着鼾、平平稳稳的似乎什么都忘却了。产婆和随后赶到的医生,只是面面相觑的吐着气。医生每遇见昏睡,仿佛便在那里想用什么非常的手段一般。
到下午,门外的大风雪逐渐平静起来,洩出了浓厚的雪云间的薄日的光辉,且来和积在窗间的雪偷偷的嬉戏了。然而在房里面的人们,却愈包在沉重的不安的云片里。医生是医生,产婆是产婆,我是我,各被各人的不安抓住了。这之中,似乎全不觉到什么危害的,是只有身临着最可怕的深渊的产妇和胎儿。两个生命,都昏昏的睡到死里去。
&大概恰在三时的时候,——起了产气以后的第十二时——在催夕的日光中,起了该是最后的激烈的阵痛了。宛然用肉眼看着噩梦一般,产妇圆睁了眼,并无目的的看定了一处地方,与其说苦楚,还不如说吓人的皱了脸。而且将我的上身拉向自己的胸前,两手在背上挠乱的抱紧了。那力量,觉得倘使我没有和产妇一样的着力,那产妇的臂膊便会挤破了我的胸脯。在这里的人们的心,不由的全都吃紧起来,医生和产婆都忘了地方似的,用大声勉励着产妇。
&骤然间感着了产妇的握力的宽松,我抬起脸来看。产婆的膝边仰天的躺着一个没有血色的婴儿。产婆像打球一般的拍着那胸膛,一面连说道葡萄酒葡萄酒。看护妇将这拿来了。产婆用了脸和言语,教将酒倒在脸盆里。盆里的汤便和剧烈的芳香同时变了血一样的颜色。婴儿被浸在这里面了。暂时之后,便破了不容呼吸的紧张的沉默,很细的响出了低微的啼声。
&广大的天地之间,一个母亲和一个儿子,在这一刹那中忽而出现了。
&那时候,新的母亲看着我。软弱的微笑。我一见这,便无端的满眼渗出泪来。我不知道怎样才可以表现这事给你们看。说是我的生命的全体,从我的眼里挤出了泪,也许还可以适当罢。从这时候起,生活的诸相便都在眼前改变了。
&你们之中,最先的见了人世之光者,是这样的见了人世之光的。第二个和第三个也如此。即使生产有难易之差,然而在给与父母的不可思议的印象上却没有变。
&这样子,年青的夫妇便陆续的成了你们三个的父母了。
&我在那时节,心里面有着太多的问题。而始终碌碌:从没有做着一件自己近于“满足”的事。无论什么事,全要独自咬实了看,是我生来的性质,所以表面上虽然过着极普通的生活,而我的心却又苦闷于动不动便骤然涌出的不安。有时悔结婚。有时嫌恶你们的诞育。为什么不待自己的生活的旗色分外鲜明之后,再来结婚的呢?为什么情愿将因为有妻,所以不能不拖在后面的几个重量,系在腰间的呢?为什么不可不将两人肉欲的结果,当作天赐的东西一般看待呢?耗费在建立家庭上的努力和精力,自己不是可以用在别的地方的么?
&我因为自己的心的扰乱,常使你们的母亲因而啼哭,因而凄凉。而且对付你们也没有理。一听到你们稍为执拗的哭泣或是歪缠的声音,我便总要做些什么残虐的事才罢手。倘在对着原稿纸的时候,你们的母亲若有一件些小的家务的商量,或者你们有什么啼哭的喧闹,我便不由的拍案站立起来。而且虽然明知道事后会感到难堪的寂寞,但对于你们也仍然加以严厉的责罚,或激烈的言词。
&然而运命来惩罚我这任意和暗昧的时候竟到了。无论如何,总不能将你们任凭保姆,每夜里使你们三个睡在自己的枕边和左右。通夜的使一个安眠,给一个热牛乳,给一个解小溲,自己没有熟睡的工夫,用尽了爱的限量的你们的母亲,是发了四十一度的可怕的热而躺倒了,这时的吃惊固然也不小,但当来诊的两个医生异口同声的说有结核的徵候的时节,我只是无端的变了青苍。检痰的结果,是给医生们的鉴定加了凭证。而留下了四岁和三岁和两岁的你们,在十月杪的凄清的秋日里,母亲是成了一个不能不进病院的人了。
&我做完日里的事,便飞速的回家。于是领了你们的一个或两个,匆匆地往病院去。我一住在那街上,便来做事的一个勤恳的门徒的老妪,在那里照应病室里的事情。那老妪一见你们的模样,便暗暗的拭着眼泪了。你们一在床上看见了母亲,立刻要奔去、要缠住。而还没有给伊知道是结核症的你们的母亲,也仿佛拥抱宝贝似的,要将你们聚到自己的胸前去。我便不能不随宜地支吾着,使你们不太近伊的床前。正尽着忠义,却从周围的人受了极端的误解,而又在万不可辩解的情况中,在这般情况中的人所尝的心绪,我也尝过了许多回。虽然如此,我却早没有愤怒的勇气了。待到像拉开一般地将你们远离了母亲,同就归途的时候,大抵街灯的光已经淡淡的照着道路。进了门口,只有雇工看着家。他们虽有两三人,却并不给留在家里的婴儿换一换衬布。不舒服似的啼哭着的婴儿的胯下,往往是湿漉漉的。
你们是出奇地不亲近别人的孩子。好容易使你们睡去了,我才走进书斋去做些调查的工夫。身体疲乏了,精神却昂奋着。待到调查完毕,正要就床的十一时前后的时候,已经成了神经过敏的你们,便做了夜梦之类,惊慌着醒来了。一到黎明。你们中的一个便哭着要吃奶。我被这一惊起,便到早晨不能再闭上眼睛。吃过早饭,我红了眼,抱着中间有了硬核一般的头,走向办事的地方去。
&在北国里,眼见得冬天要逼近了。有一天,我到病院去,你们的母亲坐在床上正眺着窗外,但是一见我,便说道想要及早的退了院。说是看见窗外的枫树已经那样觉得凄凉了。诚然,当入院之初,燃烧似的饰在枝头的叶,已是凋零到不留一片,花坛上的菊也为寒霜所损,未到萎落的时候便已萎落了。我暗想,即此每天给伊看这凄凉的情状,也就是不相宜的。然而母亲的真的心思其实不在此,是在一刻也忍不住再离开了你们。
&终于到了退院的那一天,却是一个下着雪子,呼呼的吼着寒风的坏日子,我因此想劝伊暂时消停,事务一完,便跑到病院去。然而病房已经空虚了,先前说过的老妪在屋角上,草草的摒当着讨得的东西,以及垫子和茶具。慌忙回家看,你们早聚在母亲的身边,高兴的嚷着了。我一见这,也不由的坠了泪。
&不知不识之间,我们已成了不可分离的东西了。亲子五人在逐步逼紧的寒冷之前,宛然是缩小起来以护自身的杂草的根株一般,大家互相紧挨,互分着温暖。但是北国的寒冷,却冷到我们四个的温度,也无济于事了。我于是和一个病人以及天真烂熳的你们,虽然劳顿,却不得不旅雁似的逃向南边去。
&离背了诞生而且长育了你们三个人的土地,上了旅行的长途,那是初雪纷纷的下得不住的一夜里的事。忘不掉的几个容颜,从昏暗的车站的月台上很对我们惜别。阴郁的轻津海峡的海色已在后面了。直跟到为止的一个学生,抱着你们中间的最小的一个,母亲似的通夜没有歇。要记载起这样的事来,是无限量的。总而言之,我们是幸而一无灾祸,经过了两天的忧郁的旅行之后,竟到了晚秋的了。
&和先前居住的地方不一样,有许多亲戚和兄弟,都为我们表了很深的同情。这于我不知道添多少的力量呵。不多时,你们的母亲便住在K海岸的租来的一所狭小的别墅里,我便住在邻近的旅馆里,由此日日去招呼。一时之间是病势见得非常之轻减了。你们和母亲和我,至于可以走到海岸的沙丘上,当着太阳,很愉快经过二三时间了。
&运命是什么意思,给我这样的小康,那可不知道。然而他是不问有怎样的事,要做的事总非做完不可的。这年已近年底的时候,你们的母亲因为大意受了寒,从此日见其沉重了。而且你们中的一个,又突然发了原因不明的高热。我不忍将这生病的事通知母亲去。病儿是病儿,又不肯暂时放开我。你们的母亲却来责备我的疏远了。我于是躺倒了。只得和病儿并了枕,为了迄今未曾亲历过的高热而呻吟了。我的职业么?我的职业是离开我已经有千里之远了。但是我早经不悔恨。为了你们,要战斗到最后才歇的一种热意,比病热还要旺盛的烧着我的胸中。
&正月间便到了悲剧的绝顶。你们的母亲已经到非知道自己的病的真相不可的窘地了。给做了这烦难的脚色的医生回去之后,见过你们的母亲的脸的我的记忆,一生中总要鞭策我罢。显着苍白的清朗的脸色,仍然靠在枕上,母亲是使那微笑,说出冷静的觉悟来,静静的看着我。在这上面,混合着对于死的(Resignation)(觉悟)和对于你们的强韧的执着。这竟有些阴惨了。我被袭于悽怆之情,不由的低了眼。
&终于到了移进H海岸的病院这一天。你们的母亲决心很坚,倘不全愈,那便死也不和你们再相见。穿好了未必再穿——而实际竟没有穿——的好衣服,走出屋来的母亲,在内外的母亲们的眼前,潜然的痛哭了。虽是女人,但气象超拔而强健的你们的母亲,即使只有和我两人的时候,也可以说是从来没有给看过一回哭相,然而这时的泪,却拭了还只是奔流下来。那热泪,是惟你们的崇高的所有物。这在现今是干涸了。成了横亘太空的一缕云气么,变了溪壑川流的水的一滴么,成了大海的泡沫之一么,或者又装在想不到的人的泪堂里面么,那是不知道。然而那热泪、总之是惟你们的崇高的所有物了。
&一到停着自动车的处所,你们之中正在热病的善后的一个,因为不能站,被使女背负着——一个是得得的走着——最小的孩子,是祖父母怕母亲过于伤心了,没有领到这里来——出来送母亲了。你们的天真烂熳的诧异的眼睛,只向了大的自动车看。你们的母亲是悽然的看着这情形。待到自动车一动弹,你们听了使女的话,军人似的一举手。母亲笑着略略的点头。你们未必料到,母亲是从这一瞬息间以后,便要永久的离开你们的罢。不幸的人们呵。
&从此以后,直到你们的母亲停止了最后的呼吸为止的一年零七个月中,在我们之间,都奋斗着剧烈的争战。母亲是为了对于死要取高的态度,对于你们要留下最大的爱,对于我要得适中的理解;我是为了要从病魔救出你们的母亲,要勇敢的在双肩上担起了逼着自己的运命;你们是为了要从不可思议的运命里解放出自己来,要将自己嵌进与本身不相称的境遇里去,而争战了。说是战到鲜血淋漓了也可以。我和母亲和你们,受着弹丸,受着刀伤。倒了又起,起了又倒的多少回呵。
&你们到了六岁和五岁和四岁这一年的八月二日,死终于杀到了。死压倒了一切。而死救助了一切了。
&你们的母亲的遗书中,最崇高的部分,是给与你们的一节,倘有看这文章的时候,最好是同时一看母亲的遗书。母亲是流着血泪,而死也不和你们相见的决心终于没有变。这也并不是单因为怕有病菌传染给你们。却因为怕将惨酷的死的模样,示给你们的清白的心,使你们一生增加了暗淡,怕在你们应当逐日生长起来的灵魂上,留下一些较大的伤痕。使幼儿知道死,是不但无益,反而有害的。但愿葬式的时候,教使女带领着,过一天愉快的日子。你们的母亲这样写。又有诗句道:
&“思子的亲的心是太阳的光普照诸世间似的广大。”
&母亲亡故的时候,你们正在信州的山上,我的叔父,那来信甚而至于说,倘不给送母亲的临终,怕要成一生的恨事罢,但我却硬托了他,不是你们从山中回到家里,对于这我,你们有时以为残酷,也未可知的,现在是十一时半了。写这文章的邻室的屋子里,并了枕熟睡着的你们,你们还幼小,倘你们到了我一般的年纪,对于我们做的事,就是母亲所要使我做的事,总会到觉得高贵的时候罢。
&我自此以来,是走着怎样的路呢?因了你们母亲的死,我撞见了自己可以活下去的大路了。我知道了只要爱护着自己,不要错误的走着这一条路便可以了。我曾在一篇创作里描写过一个决计将妻子作为牺牲的男人的事。在事实上,你们的母亲是给我做了牺牲了。像我这样不知道使用现成的力量的人,是没有的。我的周围的人们是只知道将我当做一个小心的鲁钝的,不能做事的,可怜的男人;却没有一个肯试使我贯彻了我的小心和鲁钝和无能力来看。这一端,你们的母亲可是成就了我,我在自己的孱弱里,感到力量了。我在不可能做事处寻到了事情,在不可能大胆处寻到了大胆,在不锐敏处寻得到了锐敏,换句话说,我锐敏的看到了自己的鲁钝,大胆的认得了自己的小心,无劳役来体验自己的无能力,我以为用了这力,便可以鞭策自己,生发别样的,你们倘或有眺望我的过去的时候,也该会知道我也并非徒然的生活,而替我欢喜的吧。
&雨之类只是下,悒郁的情况涨满了家中的日子,动不动,你们中的一个便走进我的书斋来。而且只叫一声爹爹,就靠在我的膝上,啜啜地哭起来了。唉唉,有什么要从你们天真烂漫的眼睛里要求眼泪呢?不幸的人们阿。再没有比看见你们倒在无端的悲哀里的时候,更觉得人世的凄凉了。也没有比看见你们活泼的向我说过早晨的套语,于是跑到母亲的照相面前,快活地叫道“亲娘,早晨好!”的时候,更是猛烈地直穿透我的心底里的时候了。我在这时,便悚然地看见了无劫的世界。
世上的人们以为我的这述怀是呆气,是可以无疑的。因为所谓悼亡,不过是多到无处不有的事件中的一件。要将这样的事当作一宗要件,世人也还没有如此的闲空。这是确凿如此的。但虽然如此,我不必说,便是你们,也会逐渐的到了觉得母亲的死,是一件什么也替代不来的悲哀和缺憾的事件中间,也可以深深地触着人生的寂寞。细小的事,并非细小的事。大的事,也不是大的事。这只在一个心。
&要之,你们是见之惨然的人生的萌芽呵。无论哭着,无论高兴,无论凄凉,看守着你们父亲的心,总是异非的伤痛。
&然而这悲哀于你们和我有怎样的强力,怕你们还未必知道罢。我是蒙了这损失的庇荫,向生活又深入了一段落了。我们的根,向大地伸进了多少了。有不深入人生,至于生活人生以上者,是灾祸呵。
&同时,我们又不可只浸在自己的悲哀里,自从你们的母亲亡故之后,金钱的负累却得了自由了。要服的药品,什么都能服,要吃的食物什么都能吃。我们是从偶然的社会组织的结果,享乐了这并非特权的特权了。你们中的有一个,虽然模糊,还该记得U氏一家的样子罢。
那从亡故的夫人染了了结核的U氏,一面有着理智的性情,一面却相信天理教,想靠了祈祷来治病苦,我一想他那心情,便情不自禁起来了。药物有效呢,还是祈祷有效呢,这可不知道。然而U氏是很愿意服医生的药的,但是不能够。U氏每天便血,还到官衙里来,从始终过着手帕的喉咙中,只能发出嘶嘎的声气。以劳作,病便要加重,这是分明知道的。分明知道着,而u氏却靠了祈祷,为维持老母和两个孩子的生活起见,奋然地接力的劳作。待到病势沉重之后,出了仅少的钱,即定了的古贺液的注射,又因为乡下医生的大意,出了静脉,引起了剧烈的发热。于是u氏剩下了无资产的老母和孩子,因此死去了。那些人们便住在我们的邻家。这是怎样的一个命运的拨弄呢。你们一想到母亲的死,也应该同时记起U氏。而且设法来填平这壕沟。我以为你们母亲的死,便够使你们的爱扩张到这地步了,所以我敢说。
&人世很凄凉。我们可以单是这样说了就算么?你们和我,都如尝血的兽一般,尝了爱了。去罢,而且要从凄凉中救出我们的周围,而做事去罢。我爱过你们了,并且永远爱你们。这并非因为想从你们得到为父的报酬,所以这样说。我对于教给我爱你们的你们,唯一的要求,只在收受了我的感谢罢了。养育到你们成了一个成人的时候,我也许已经死亡;也许还在拼命的做事,也许衰老到全无用处了。然而无论在哪一种情形,你们所不可不助的,却并不是我。你们的清新的力,是万不可为垂暮的我辈之流所拖累的。最好是像那吃尽了毙掉的亲,贮起力量来的狮儿一般,使劲的奋然的掉开了我,进向人生去。
&现在是时表过了夜半,正指着一点十五分。在阒然寂静了的夜之沉默中,这屋子里,只是微微的听得你们的平和的呼吸,我的眼前,是照相前面放着叔母折来赠给母亲的蔷薇花。因此想起来的,是我给照这照相的时候。那时候,你们之中年龄最大的一个,还缩在母亲的胎中。母亲的心中是始终恼着连自己也莫名其妙的不可思议的希望和恐怖。那时的母亲是尤其的美。说是仿佛那希腊的母亲,在屋子里装饰着很好的肖像。其中有纳尔伐的,有瞿提的,和克灵威尔的,有那丁格尔女士的。对于那娃儿脾气的野心,那时的我是只用了轻度嘲笑的心来看,但现在一想,是无论如何,总不能单以一笑置之的。我说起要给你们的母亲去照相,便极意的加了修饰,穿了最好的好衣服,走进我楼上的书斋来。我诧异地看着那模样。母亲冷清清的笑着对我说:生产是女人的临阵,或生佳儿或是死,必居其一的。所以用临终的装束。——那时我也不由得失笑了。然而在今,是远也不能笑。
&深夜的沉默使我严肃起来。至于觉得我的前面,隔着书桌,便坐着你们的母亲似的了。母亲的爱,如遗书所说的一定拥护着你们。好好的睡着罢。将你们听凭了所谓的不可思议的是这种东西的作用,而好好的睡着罢。而且到明日,便更长大更贤良地跳出眠床来,我对于做完我的职务的事,总尽全力的罢。即使我在一生怎样的失败,又纵使我不能克服怎样的诱惑,然而你们在我的踪迹上寻不出什么不纯的东西来这一点事,是要做的;一定做的。你们不能不从我的毙掉的地方,重新跨出步去。然而什么方向,怎样走法,那是虽然隐约,你们可以从我的足迹上探究出来罢。
&幼小者阿,将不幸而又幸福的你们的父母的祝福带在胸中,上人生的行旅去。前途是辽远的,而且也昏暗。但是不要怕。在无畏者的面前就有路。
去罢,奋然的,幼小者呵。
(摘自《鲁迅全集》第11卷445页)
『小さき者へ』
1956 角川文庫?1985新潮文庫
 こういう悲痛な文章はもっと読まれるべきだ。
 なぜなら、この悲痛はわれわれの「存在の印画紙」ともいうべきにうっすらと感光しているものと似ているからだ。われわれは「生まれ生まれ生まれて、その生の始めに暗い」はずの生をうけてこの世に誕生した者ではあるけれど、その印画紙は無地ではなかったのである。そこには当初の地模様というものが感光されていた。有島武郎は、生涯を賭けてその当初の感光が何であったかを問いつづけた優しい知識人だった。
 『小さき者へ』。いったい何を意味しての「小さき者」なのか。これは、母を失ったわが子に贈った有島の壮絶な覚悟の証文であって、誰も彼もを存在の深淵に招きかねない恐ろしい招待状であり、また、冷徹な現実をつねに未来に向かって突き刺さるものだということを公開した果たし状のようなものだった。
 有島が19歳の陸軍中将の娘?神尾安子と結婚したのは31歳のときである。まだ本格的に作家になるまでには至っていないころで、創刊まもない「白樺」に短編や戯曲を書いていた程度だった。
 ところが安子は5年ほどで肺結核になり、平塚の杏雲堂病院に入院したまま、7年目に死んでしまった。まだ幼い3人の男の子がのこされた。長男がのちの名優?森雅之である。安子は自分が死んだことを子供たちには伏せるように、葬儀にも子供たちを参列させないように言い遺していた。その4カ月後に有能な明治の官僚だった父親も死ぬ。
 有島はこの直後に猛然と執筆の嵐の中に突入していった。
 大正6年(1917)、39歳である。まさに猛然と、『惜しみなく愛は奪ふ』『カインの末裔』『クララの出家』『実験室』『迷路』などの問題作を、たった1年でたてつづけに発表する。ぼくは有島を『カインの末裔』から読んだ。そして高校時代に打ちのめされていた。のちにのべるように、有島はわが子を僅かでも救うために、この物語を思いついていた。
 こうしてその翌年、「新潮」に発表したのが、痛ましい『小さき者へ』なのである。
有島がわが子に伝えたかったことは、母を失ったお前たちは根本的に不幸だということである。とても大切な何かが奪われたのだということだった。
 母を失っても元気でやりなさい、大丈夫なのだから、とは書かなかった。冒頭から次のように書いたのだ。
 「お前たちは去年、一人の、たつた一人のママを永久に失つてしまつた。お前たちは生まれると間もなく、生命に一番大事な養分を奪はれてしまつたのだ。お前たちの人生は既に暗いのだ」。
 幼な子に向かって、いったい「お前たちの人生はすでにして暗いのだ」と書く父親がどこにいるだろうか。父がのこした文章を子供たちが読むのが10歳であれ、15歳であれ、こんなものを読んだら必ずやその時点で、子供たちは自分が存在すること自身の暗部を自覚しなければならないのである。こんな言葉を贈ることが子供への救済になるとは、ふつうは考えられない。
 いまでは精神医学や心理学があまりにも安易に発達しすぎたために、子供時代のトラウマを残さないように、子供を育てる親や教師たちは、できるだけ子供の心に傷をつけないようにする。また、時すでに傷を負った者には、できるだけそのトラウマを取り除いてしまおうとしたり、それを忘れさせようとする。まるで君にはどんな負い目もないんだよと、忌まわしい過去を指一本でデリートするかのように。
 しかし、有島はそんなことを忖度せず、逆に、さらに激越な言葉を続けたのである。
 「お前たちは不幸だ。恢復の途(みち)なく不幸だ。不幸なものたちよ」。
 異様な手記『小さき者へ』にどんな意図があったかは、その直後に知人に送った手紙に、これをもとに作品を書く予定があることが告げられている。
 実際にも、有島はその3カ月後から「毎日新聞」に初めての新聞連載小説『生まれ出づる悩み』を書きはじめた。生まれ出づる悩み。このあまりに象徴的な標題にはまさしく『小さき者へ』が抱えたはずの宿命が問われていよう。誰もが、そう、思う。
 しかしながら、この作品を読めばわかるように、有島は「出生の苦悩」を人間の出生に求めたわけではなかったのだ。有島は「生まれ出づる悩み」は、地球そのものが背負っているのだという結論を導くために書いたのだった。
 こんなふうに、ある。「ほんたうに地球は生きてゐる。生きて呼吸してゐる。この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生れ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみ君によつて感ずる事が出来る」。
 ここで「君」と呼ばれているのは、この作品の主人公である木本という青年のことである。
 木本は実在のモデルのある青年で、かつて札幌にいた有島のところにヘタな絵をもってきて、自分は画家を志望しているが、漁師の家に育ち、しかも周囲の誰よりも頑健な体で育ったので、誰もが自分の芸術への憧れを理解してくれない。どうしたらいいかと相談にきた。
 有島はこの青年を応援しようとするのだが、青年はなぜか消息を断ってしまう。それから8年ほどたって、有島のところへ油臭い2冊のスケッチ帳と手紙が届く。青年はまだ画家の夢を捨ててはいずに、東京に出て勉強したいと書いていた。有島は青年がの自然の中にいてこそ大きな画家の資質が磨けると見て、上京を止まらせ、で修行をするのなら自分が学資を援助すると言う。青年は有島の援助を断った。
 この体験を小説にしたのが『生まれ出づる悩み』となった。
 けれども、どうもここには『小さき者へ』との連続性がない。幼な子の将来に宿命づけられた暗部の問題は、『生まれ出づる悩み』では青年画家の自然との融合にすりかわる。主題はの大自然に引き取られ、急にエコロジカルに開放されていってしまう。
 これはまさに、すでに有島作品として最初の評判をとった『カインの末裔』が提示した二極対応への解消だった。
 すなわち、有島はわが子に突き付けた果たし状を、ここでは『カインの末裔』の仁右衛門同様に、自然との格闘からの昇華に導いてしまったのである。対決から融合へ、文明から自然へ、技術から芸術へ、というふうに。
 しかし、作品としてはそういう道があったにせよ、また、わが子に対しては、そのように導く道があったとしても、これは有島がわが子や青年画家に託して自分に課した宿命との闘いを回避させるには、あまりに有島自身の行方を苛酷にするやりかただったのである。そのぶん、文学としての『生まれ出づる悩み』を曖昧にすることにもなった。
 有島武郎を読むばあい、いつもこのあたりの、有島自身の問題と作品を使って乗り切ろうとする方法的主題の問題とが、あたかも生死の境界をどうやって跨げばいいのかという様相を呈して、互いに矛盾しあいながら立ちはだかってくる。
 これはもともと有島が裕福な大蔵官吏の家に生まれ育ったこと、そこから離れるためにあえて札幌農学校に入り、キリスト教を浴びたこと、にもかかわらずアメリカで体験したことは師の内村鑑三の実感に似て「ひどい文明主義」と「人種差別」だったこと(有島はハーバード大学大学院にも入ってそうとうに優秀な成績を収めているのだが、自主参加した精神病院で患者たちから“ジャップ”呼ばわりされて、悩んでいた)、時代が急速に社会主義の理想や白樺派の理想に包まれていたことなど、有島を独自にとりかこむ数々の事態そのものが、現実と理想の劇的ともいえる二極化を痛切に通過しつつあったことにも、それぞれ関係がある。
 そうしたなか、有島はたえず自身の立場というものに疑問を抱き続けたわけである。
 けれども、その立場をとことん倫理的に追求していけば、自分がおめおめと生きているという存在者の根拠に対する容赦ない否定ともなりかねない。それでも有島はその「否定」を選んだようだ。
 有島武郎は二度、心中を試みた。
 一度目は21歳のときで、札幌農学校の級友森本厚吉と定山渓で死にそこねた。あまり議論されてこなかったことだが、男どうしの心中計画である。どうも森本が「君との友情を大事にするために、他の連中を切っている」などと言われたことを、有島がまっすぐに受け止めたのではないかとも推測されているが、ぼくは有島に“孤独な汎神的白虎隊”のような気分がなかったとはいえないと思っている。
 死にそこねた有島は、その直後、キリスト者になる決意をして内村鑑三を読み耽った。神への愛に切り替えようとしたわけである。しかしそれでも離れない森本と一緒にアメリカにわたったのち、有島はアメリカのキリスト教徒たちの堕落を見て、キリスト者になることを断念してしまう。すでにこれら事態の推移に、有島が今後抱えることになるいっさいの矛盾は噴き出ている。
 二度目の心中は45歳のときで、いまさら言うまでもなく、「婦人公論」のとびきりの美人記者だった波多野秋子と、かねての計画通りに軽井沢の自分の別荘「浄月庵」で心中をはかって、思いを遂げた。大正12年6月9日のこと、新聞はこの大ニュースをスキャンダラスに書きたてた。
 関東大震災がおこる3カ月前のことである。
二つの心中に挟まれた有島の生涯に接してみると、死ぬことは有島にとっては何でもなかったことのように見えてくる。
 事実、有島はつねに生と死の境界に挑みつづけた思索と表現を試みてきた。けれども、その試みは創作意欲をけっして満たすものではなく、まさに有島自身の生まれ出づる苦悩を感光するためのものとなっていた。
 もっとはっきりいえば、有島がその後に書いた『或る女』『宣言一つ』などにあらわれているように、有島は理想を創作作品に託しつつも、自身はそれらのコンセプトワークによって毫も救われていなかったのである。それは有島の心中以外の現実的な行動、たとえばの狩太農場を小作人に開放して、それを「共生農場」と唱えるというような社会的行動によっても、なんらの充実や実感を引き出すことができなかったという一事にもあらわれている。
そこで、こんな有島武郎論も横行することになる。もし有島に溢れるようなフィクショナルな才能が迸(ほとばし)っていたら、有島は婦人記者と心中する羽目などにはならなかったのではないか。結局、有島には作家の才能が皆無だったのではないか。こういう感想だ。
 しかし、このような見方では、有島の存在の感光紙がもたらすものの「すさまじさ」にはとうてい迫れない。
 まさに有島は、かつての王朝人が感覚した「すさまじきもの」の淵の上を、最初から明治の王朝人としてすれすれに歩んでいたというべきなのである。それは、学習院予備科に入った10歳の有島が、早々に皇太子明宮(のちの大正天皇)の学友に選ばれていたことにも如実に投影されている。有島はそのように「上の人間」になることにほとほと嫌気をおぼえて育ったのである。むしろ「上の人間」になればなるほど、差別の亀裂が深まっていくことを実感しつづけていたのだった。
 こうして有島は『小さき者へ』を書いているときに、自身につきまとうこのような宿命を、はたしてわが子にどのように伝えるべきかと呻吟し、あえて「存在は最初からなにものかに奪われている」というテーゼを突き付けることを決断したのである。
 ぼくは、ずいぶん早くに有島武郎に惹かれていた。けれども「敗北の哲学」に惹かれたという気分は、おそらくなかったようにおもう。そうではなくて、なんといえばいいか、有島のような、何をしてもアクチュアルな実感から遠くなるように自分を仕向けている生き方に惹かれたのだとおもう。
 もっとありていにいうと、卑怯者であることをどこかで隠せばいいものを、そのように「隠せそうだという思い」がおこること自体が許せなくなって、また卑怯者であることをうまく告白もできそうにもなくて、そうしたことを感じてしまう自分の実感の全貌からどんどん薄くなっていくような考え方や生き方をしている有島武郎の「宿世」の感覚に、なんだかホッとしていたのだろうとおもう。
 少なくとも、ぼくの『小さき者へ』の読み方はそういうものだった。ただ、有島自身にとってはそんなことをしたところで何の救いにもならなかったわけである。
 ところで、有島には実は『卑怯者』という小篇がある。
 牛乳配達の荷車で遊んでいた子供が、何かの拍子でその掛け金をはずし、いまにも牛乳瓶がガラガラと飛び出しそうな瞬間、子供がそれを必死で押さえている現場に出くわしたときの話である。
 それを見ていた「私」は、その光景をなんだか面白い見世物を見るように眺め、やがて子供がこの辛い危機をもう食い止められないと知ったとたん、その場を立ち去ってしまったという顛末になっている。
 「私」は、このような誰かが困っている場に望んで傍観する者たちを、つねづね「卑怯者」とみなしてきたのである。ところが、いざその瞬間になると、そこを立ち去っただけではなく、いっときではあったとしても、その光景が面白くも見えた。そんな卑怯な一日があったという話。
 この短い話は、まるで有島武郎の生涯の圧縮のようでもある。おそらく有島自身がそう思って、この作品を書いたにちがいない。しかもここには、自分の幼い子に「真実」を伝えようとして、その書き方にさえ戸惑っている有島の、去りもせず進みもしない根本衝動のようなものがあらわれている。
 きっと有島武郎はキリスト者になればよかったのである。
 それを拒否しながら「普遍の愛」を表現しようとしたときから、有島自身がすべての苦悩の解放を自分自身への懴悔を作品にしながら表明せざるをえない「たった一人の旧約聖書の書き手」になってしまったのだ。
 こんなことは、なかなかできるものではない。神を除いて「普遍の愛」を自身の周囲に近づけたいとすれば、これ人間を相手にするしかないのだが、今度は誰かが神の変わりを演じるか、そのように演じてもらうための犠牲が必要になる。
 有島は「神なき愛」などさっさとごまかせばよかったのに、ここで自身をこそ犠牲とし、自身をこそ卑怯者にすることを選んだのである。
 すでに有島が書きはじめた旧約の物語は、もう何十ページも進んでいた。書きつづけるか、中断するか。波多野秋子は「中断の美」を煽ったようだ。有島自身も自分が書きはじめてしまった旧約の文章の、一行ずつの矛盾を引き受けたかったのだろう。そう、おもうしか、ない。
 こんな文章が『生まれ出づる悩み』にある。「だれも気もつかず注意も払はない地球のすみつこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでゐる」。
 この一文の前半も有島武郎、後半も有島武郎なのである。
 前半と後半をつなげると、「尊いものが、苦しんでいる」というふうになる。この前後はさかさまに対同しあっている。前は美しくも、後は受苦からの脱出が待っているという、この脈絡。その脈絡が有島にとってはあっというまの根本対同なのである。
 これでは、一週間とて生きられない蝉のようなもの。あんなに美しく翅を輝かせ、あんなに真夏を謳歌しながらも、その存在自体が宿命の刻印であるような蝉である。
 そしてまさに『小さき者へ』には、その蝉の翅の光のような深い矛盾が宿ったのだった。蝉的なるものへの否定しがたい憧れが、いまなお残響することになったのである。
 千夜千冊650冊。ぼくはさらにさらに「小さきもの」を慈しみたいとおもうばかりである。
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